第205話 返事と名乗り
東の領に着いたのは、日が落ちる前でした。
背中のアステリア様を、麦倉の壁際で下ろしました。この方は自分で膝を伸ばして、7歩、歩きました。
その先に、小屋がございます。
戸が開いておりました。中に、人が並んでいます。6列です。目が、全部開いていました。
痩せた女の方が、戸口に立っておりました。
筆を持っています。魔界の側近の方です。ゼノ様の後ろで一度お見かけしました。ネフィス様と仰る方です。
「リィナ様でございますね」
「はい。……ゼノ様は」
「朝のうちに、村へ向かわれました」
わたしは、しばらく動けませんでした。
疲れたからではありません。半日、この方を背負って歩いた先に、いないと分かりました。
戻れば、また半日です。
その間に、あの方は跨いで、また別のところへ行かれます。あの方は、待ちません。
「……すれ違いました」
「左様で。……我が主は、出られるときに、行き先を仰いません」
「知っています」
顎に傷のある男の方が、小屋から出てきました。
手に、板を持っています。板に、炭で3文字書いてありました。字が小さいです。書き慣れていない方の字です。
「東の領の、ドランと申す」
「リィナと申します」
「ゼノ殿の、連れの方か」
「……連れです」
わたしは、アステリア様の方を見ました。
この方は、小屋の中を見たまま、動きません。翼が、半分だけ開いています。天界の外の空気で重いのだと、前に仰っていました。
「アステリア様。戻ります」
「わたしは、残ります」
最初は、足のせいだと思いました。7歩しか歩けない方です。半日を2度は、無理です。
「背負います」
「いいえ」
「重くありません」
「重さの話では、ありません」
アステリア様が、こちらを向きました。
顔が、暮れ方の光で赤くなっていました。この方は、嬉しいときも困ったときも、眉の端が下がります。
いまは、下がっていませんでした。
「わたしは、ここで待ちます。……あの方が、東へ戻ってこられるからです」
「なぜ、戻られると分かるのですか?」
「わたしを、置いていかれたからです」
わたしは、その言い方が、分かりませんでした。
もう一度、訊きました。きつい訊き方になったのは自分で分かりましたが、直しませんでした。
「アステリア様。何をなさるおつもりですか」
「……上へ、お連れします」
「上、というのは」
「天界です」
わたしは、胸の上から、頁を押さえました。
懐に入れてきた頁です。いちばん下の行に、あの方の名があります。線が1本あります。
「どうやって、お連れするのですか?」
「品として、運びます」
「品」
「渡す者と、受け取る者が要ります。……わたしは、一昨日の夜、その片方になりました」
わたしは、この方の腕を掴みました。
そのあとで、掴んだことに気づきました。細い腕です。わたしの指が、回りました。それでも、緩めませんでした。
「差し出すということですか」
アステリア様は、目を逸らしませんでした。
「あなたが、あの方を、上へ差し出すのですか」
「そうです」
「では、わたしは、あなたを止めます」
「止めても、道が他にありません」
掴んだ腕の内側は、冷たいままでした。
「探します」
「3年、探しました」
腕を放しました。納得したのではありません。この方は、わたしより長く探していました。
わたしは、2年、あの方の隣にいました。
それでいて、探しませんでした。隣にいることだけを、していました。
「アステリア様」
「はい」
「わたしは、まだ、返事をしていません」
「……何の、ですか」
「名を訊かれたことがあります。王都の門の外でした。わたしは、そのとき、家名はありませんとだけ言いました。捨てたことは、言っていません」
アステリア様は、そこで、少し首を傾けました。
それから、こう仰いました。
「それは、返事ではありません。……名乗りです」
「同じです」
「違います。返事は、……待っている人に、するものです」
わたしは、言い返せませんでした。
この方の言う通りです。あの方は、わたしの名を待っていません。2年、待たれたことがありません。
待たれた方が、目の前におります。
18年、待って、一昨日の夜、受け取った方です。
「お2人とも」
ネフィス様が、帳面を開いて、間に出てまいりました。
「書いてよろしゅうございますか。……刻限と、お着きになった人数でございます。それから、言い合いのあった旨も、書かせていただきます」
「なぜ、そんなものを書くのですか?」
「後で、誰が何を言ったかで、もめますので」
わたしは、その言い方に、力が抜けました。
麦倉の壁に背中をつけて、掌を見ました。割れたところが、また開いています。半日、この方を背負った分です。
隣に、アステリア様が座りました。
何も言わずに、自分の翼を、半分だけ畳み直しました。下手な畳み方でした。
この方は、18年、下手なまま待っていました。




