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第203話 トウル

夜の間に、3度、知らない女の顔を見た。


寝ていない。それでも、瞼(まぶた)を閉じるたびに、見たことのない女が出てきた。40くらいだ。左の目の下に、黒子(ほくろ)がある。桶を持って、井戸の縁に座っていた。


俺は、その女を知らない。


なのに、この女が3年前の秋に足を痛めたことと、その足で冬に2度水を汲みに行ったことを、俺は知っている。


飲んだ行の1つだ。



朝になって、俺は小屋の壁に凭(もた)れていた。


31人は、昨日と同じ形で並んでいる。誰も立たないが、目は開いている。


ネフィスが、帳面を持って入ってきた。


「我が主。夜の間に、変わった者はおりません」


「炭は、足りてるか」


「2日分ございます。……お顔の色が、よろしくございません」


「寝てねえからだ」


「お休みになりますか?」


「寝ると、知らねえ奴の井戸が出てくる」



ネフィスは、筆を止めた。


帳面を膝の上に置いて、1行だけ書いた。それを、俺の方へ向けた。


——我が主。項に線1。刻限、昨日の暮れ方。


「書いたのか」


「書きました。……書かねば、後で、誰が返すのか分からなくなるかと存じます」


「返す気か」


「わたしは、書く係でございます。返す係は、別かと存じます」



俺は、笑いそうになった。


18年、この女は東の領で麦を数えていた。足りない分を、俺の名を騙って集めた。盗みでございます、と本人は言う。


その分も、全部書いてある。


だから、返せる。この女のやり方は、そういうやり方だ。



戸口に、ドランが立った。


手に、板を1枚持っている。小屋の壁から剥がした板だ。もう片方の手に、炭を持っている。


「ネフィス」


「はい」


「昨日の話だが」


「どうぞ」


「自分で書く」



ドランは、板を框(かまち)の上に置いた。


それから、炭を持ち直した。筆を持ったことのない者の持ち方だった。親指と人差し指で、真ん中を握っている。


書くのに、時間がかかった。


3文字だ。それに、息を2回使った。


トウル。


「……6年前の冬に、東で」


「はい」


「14だった」



ネフィスは、その板を受け取らなかった。


自分の帳面を開いて、ドランの前へ置いた。その頁の、いちばん下が空いている。


「こちらへ、もう1度お願いいたします」


「2度も書けねえよ」


「1度目は、板でございます。板は、あなたのものでございます。……帳面の方は、村のものでございます」



ドランは、しばらく動かなかった。


炭の先を見ていた。やがて、帳面の方へ手を伸ばした。手は途中で止まって、それから、書いた。


字が、板より大きかった。


俺は、その2つを見た。初めて書く者は、失敗を怖がって小さく書く。2度目は、怖がらない。



空が、明るくなった。


真上だ。また1本、降りてきている。昨日と同じ位置だった。


俺は、外へ出た。


上を見た。降り口の中から、声が下りてくる。読み上げる声だ。抑揚が無い。


読んでいる名が、聞こえた。


俺の知らない名だ。それでも、聞いた途端に、顔が出てきた。40くらいの女だ。左の目の下に、黒子がある。



俺は、自分の胸に手をやった。


何も掴めない。その奥で、読まれている。昨日飲んだ31本が、俺の内側に入ったまま、上から順に読み直されていた。


「……中身は正せる、か」


あの1番は、そう言った。俺は同輩だから正せない。だが、欄に入れたものは中身だ。


飲んだ分も、中身になっている。



ネフィスが、外へ出てきた。


「我が主。空の線が、昨日より太うございます」


「読む先が近えからだ。……俺の中にある」


「では、いかがなさいますか?」


「口を塞ぐ」


ネフィスが、筆を持ち直した。


「どなたの、でございましょう」


「上のだ」



ネフィスは、そこで、帳面を持つ手を下げた。


声が、いつもより低かった。


「階は、消えております。……どのようにして、お上がりになりますか?」


「知らねえ」


「では、お調べになる先だけでも、伺ってよろしいですか」


「降りてきた奴がいる」



俺は、西を見た。


村まで、半日だ。あそこに、天界から自分の足で降りてきた娘がいる。降りてきた道があるなら、上がる道もある。


そこから、8番目の口を塞ぎに行く。



読み上げが、女の年まで進んだ。


そこで、俺の項が熱(あつ)くなった。手をやると、線の隣に、もう1本、書きかけの跡があった。


まだ短い。指の幅の半分もない。


2本目は、俺の外からではなく、内側から伸びてきていた。

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