第201話 いちばん下の行
朝は、いちばんに頁を広げます。
3日前からの決めごとです。村の8人の行を、上から順に辿ります。線が1本のままなら、その日は、まだ大丈夫です。
頁は、膝の上に置きます。持ち歩くときは、懐に入れます。折らないようにしています。折れたところから字が消えると、ヴィント様が言いました。
8人の行は、昨日と同じでした。
それで、頁を閉じようとしました。
その途中で、手が止まりました。
いちばん下に、行が1つ増えていました。
昨日は、ありませんでした。増えた行の字が、他の行より濃いです。書かれたばかりです。
ゼノ。
その右側に、線が1本引かれていました。
わたしは、頁を持ち直して、光の当たる方へ向けました。同じでした。線は、消えません。
「リィナ様」
アステリア様が、井戸の方から歩いてきました。
昨日より、歩き方が滑らかです。膝が戻って、3日目です。この方は、戻ったものを、必ず数えて使います。7歩、10歩、と数える声が、夜のうちに聞こえていました。
わたしは、頁を伏せました。
見せたくありませんでした。なぜなのかは、自分でも、すぐには言えませんでした。
「何か、増えましたか?」
「……いいえ」
「伏せる前に、下の方を見ておられました」
「見ていません」
「わたしは、目がいいです」
アステリア様が、手を出しました。
そのまま、引きませんでした。この方は、引きません。18年、返事を待った方ですから、待つのが上手なのだと思います。
わたしは、頁を渡しました。
手が、少し震えました。
アステリア様は、いちばん下の行を見ました。
それから、しばらく何も言いませんでした。頁の端を持つ指が、白くなっていました。
「これは、いつからですか?」
「今朝です。昨夜は、ありませんでした」
「昨夜、あの方は、東へ行かれました」
「はい。壁が裂けて、跨いで行かれました」
「では、向こうで、何かを引き受けられたのです」
アステリア様の声は、静かでした。けれど、頁を返す手が、まっすぐ来ませんでした。少し遠回りをして、わたしの膝の上に置かれました。
石垣の上に、人が座っていました。
銀髪の方です。膝から下が石の色をしています。右の足にだけ、靴を履いています。この方は、村に来てから一度も、家の中に入りません。
「セレスティア様」
「見ましたか」
「見ました。……消せますか?」
「消せません」
セレスティア様の指が、石垣の縁を一度なぞりました。
「なぜですか」
「あの子が、自分で引いたからです」
セレスティア様は、右の靴の先を見ていました。
「上から下ろされた線なら、手が1つあります。その手を止めれば、線も止まります。……自分で飲んだ分は、自分に載ります。載ったものを外す道は、わたくしは知りません」
「知らないだけで、あるかもしれません」
「あるかもしれません。……ですが、わたくしは、18年探して、見つけませんでした」
少し、腹が立ちました。探したと言える方は、探せる場所にいた方です。
わたしは、あの方の隣に、2年しか、いません。
「わたしは、東へ行きます」
「行って、何をしますか」
「分かりません。……ですが、行きます」
セレスティア様は、わたしの顔を見ずに、アステリア様の方を見ました。
「あなたは」
「わたしも、参ります」
「足は」
「7歩までです。……7歩ずつ、行きます」
セレスティア様が、そこで、初めて口の端を動かしました。
笑ったのだと思います。18年、岩の中にいた方の笑い方でした。動いたのは、片側だけでした。
「その言い方を、どこで覚えましたか」
「……覚えていません」
「あなたの父ではありません。わたくしでもありません」
わたしは、その2人のやりとりを、横で聞いていました。
分かったことが1つあります。この母子は、18年ぶりに会って、まだ、真っ直ぐ話していません。
母親の方は、娘の足の話をしています。娘の方は、歩数を答えています。どちらも、昨夜のことを言いません。
わたしなら、言います。
わたしは、言えなかったことを、あとで悔やむ性質です。
「アステリア様」
「はい」
「7歩ずつでは、着きません」
「知っています」
「わたしが背負います」
アステリア様は、わたしの顔を見ました。
それから、少し下を向いて、こう言いました。
「……重いですよ」
「軽いです。5日前に、持ち上げました」
わたしは、頁を折らずに懐へ入れました。
その前に、いちばん下の行を、指で一度だけなぞりました。何も起きません。それでも、なぞりました。
この行だけは、誰にも読ませません。




