↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
200/300

第200話 全部だ

縁を跨いだ先は、麦の匂いがした。


乾いた麦だ。刈ってから、少なくともひと月は経っている。俺は、その匂いを吸いながら、跨いだ足を地面に下ろした。思っていたより柔らかい。東の土は、こういう土だった。


目の前に、痩せた女が立っていた。


筆を持ったまま、動いていない。18年、こいつの手はこの形をしていたのだろうと分かる持ち方だった。


「ネフィス」


「……我が主」


「帳面、閉じろ」



俺は、空を見た。


線が1本、真上から降りている。下の端が、麦倉の屋根に触れていた。降り口だ。その中を、声が下りてくる。


読み上げている。


名は済んだ。年も済んだ。住んだ場所まで来ている。次は、数えられる理由だ。


「あの声を、いつから聞いてる」


「3日前でございます」


「その間に、31人だな」


「左様で。……数え方が、日ごとに速くなっております」


「速えのは、急いでるからだ」


上は、204を埋めようとしている。それが済むまでは、こいつらの都合で日が進む。急ぐ側には、必ず、雑になるところがある。



顎に傷のある男が、戸の前に立っていた。


俺の方は見ずに、自分の名が読まれているのを、最後まで聞くつもりの立ち方をしていた。こういう立ち方をする男を、俺は何人か知っている。


「ドラン」


「……ゼノ殿」


「下がれ」


「下がっても、読まれるんじゃないのか?」


「読まれる。だが、読むのと引くのは別だ」



俺は、小屋の戸を蹴った。


戸が内側へ開いて、炭の熱が出てきた。中に、人が並んでいる。6列だ。目が全部開いているのに、誰も、こちらを見ない。


その列の、いちばん端が、立っていた。


若い。20そこそこだ。膝が笑っている。それでも立って、右手を胸の高さまで上げていた。


人差し指だけが伸びている。


「……あれは」


ネフィスが、そう言いかけた。


俺が答えるより先に、若いのが一歩出た。戸の外だ。そこに、ドランの背中がある。


上は、下に手を置いていない。降りた3つは、村に取り残した。だから、手を新しく作った。



俺は、間に入った。


伸びた指を掴んだ。冷たい。だが、脈(みゃく)はある。この若いのは、死んでいない。生きているものを闇で落とせば、そのまま死ぬ。


指が、俺の掌の中で、前へ進もうとした。


引く力は、膂力(りょりょく)ではなかった。読まれている方へ引かれている。磁石に近い。


「ネフィス。この小屋の、残り30人を見てろ」


「……立ちましたら、いかがいたしますか?」


「掴め。折るな」



読み上げが、理由まで進んだ。


理由は、短かった。


——6年前、東で数え終えた列から、外れた者。


腹の底が、灼(や)けた。6年前の冬、東で2000を超える者が死んだ。ザルカが西へ4000人分を配って、東へ1袋も入れなかった冬だ。あのとき数え損ねた行が、上の帳にそのまま残っている。


その行を、いま、釣り合わせに使っている。


こいつらは、20年前の聖国でも、同じことをした。



若いのの指先に、光が乗った。


細い。糸より細い。あれが、首に触れれば、1本目になる。ドランには、まだ1本も無い。1本目を引かれたら、2本目までは、上の都合次第だ。


俺は、掴んだ手首を、自分の方へ引いた。


そして、その指の光を、口へ入れた。



味は、無かった。


だが、入ってくるものがあった。名と、年と、住んだ場所だ。ドラン。40と9。溜り村。それから、6年前に死んだ者の名が1つ、後ろにくっついてきた。


倅(せがれ)の名だ。


俺は、それを飲んだ。この男が6年、誰にも言えなかったものを、俺が先に飲んだことになる。


だが、吐き出せない。



小屋の中で、音がした。


振り返ると、2人目が立っていた。3人目も起きかけている。上は、1本引けなければ、次の手を出す。


俺は、掌を開いた。


6枚を、置かなかった。ここで極級を振れば、小屋ごと、30人が消える。


代わりに、俺は、口を開けたまま、列の前に立った。


「全部だ」



指が、次々に伸びた。


どれも、俺のところで止まる。その光を、俺は端から飲んだ。1本、2本、5本、10本。飲むたびに、知らない者の年が入ってくる。誰の母親か、誰の兄か、何を作っていたかまで入ってくる。


31本目を飲んだところで、立っていた者が、全部座った。


そして、また止まった。



空の線が、消えた。


途中でだ。読み上げの声が、最後まで行かずに切れている。読む先が、こちらで全部無くなった。


ネフィスが、帳面を持ったまま、こちらへ来た。


「……32人目は、いかがでございましたか?」


「出てねえ」


「では、書きません」


ネフィスは、そう言って、筆を袂(たもと)に戻した。


それから、わずかに俺の後ろへ回って、止まった。書き手の止まり方だった。この女は、書くべきものを見つけたときに、必ず一度止まる。


「我が主。……お首の後ろでございますが」



俺は、手を、自分の項へやった。


指の腹に、線が1本あった。


飲んだ分が、そのまま、俺に引かれている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。