第200話 全部だ
縁を跨いだ先は、麦の匂いがした。
乾いた麦だ。刈ってから、少なくともひと月は経っている。俺は、その匂いを吸いながら、跨いだ足を地面に下ろした。思っていたより柔らかい。東の土は、こういう土だった。
目の前に、痩せた女が立っていた。
筆を持ったまま、動いていない。18年、こいつの手はこの形をしていたのだろうと分かる持ち方だった。
「ネフィス」
「……我が主」
「帳面、閉じろ」
俺は、空を見た。
線が1本、真上から降りている。下の端が、麦倉の屋根に触れていた。降り口だ。その中を、声が下りてくる。
読み上げている。
名は済んだ。年も済んだ。住んだ場所まで来ている。次は、数えられる理由だ。
「あの声を、いつから聞いてる」
「3日前でございます」
「その間に、31人だな」
「左様で。……数え方が、日ごとに速くなっております」
「速えのは、急いでるからだ」
上は、204を埋めようとしている。それが済むまでは、こいつらの都合で日が進む。急ぐ側には、必ず、雑になるところがある。
顎に傷のある男が、戸の前に立っていた。
俺の方は見ずに、自分の名が読まれているのを、最後まで聞くつもりの立ち方をしていた。こういう立ち方をする男を、俺は何人か知っている。
「ドラン」
「……ゼノ殿」
「下がれ」
「下がっても、読まれるんじゃないのか?」
「読まれる。だが、読むのと引くのは別だ」
俺は、小屋の戸を蹴った。
戸が内側へ開いて、炭の熱が出てきた。中に、人が並んでいる。6列だ。目が全部開いているのに、誰も、こちらを見ない。
その列の、いちばん端が、立っていた。
若い。20そこそこだ。膝が笑っている。それでも立って、右手を胸の高さまで上げていた。
人差し指だけが伸びている。
「……あれは」
ネフィスが、そう言いかけた。
俺が答えるより先に、若いのが一歩出た。戸の外だ。そこに、ドランの背中がある。
上は、下に手を置いていない。降りた3つは、村に取り残した。だから、手を新しく作った。
俺は、間に入った。
伸びた指を掴んだ。冷たい。だが、脈はある。この若いのは、死んでいない。生きているものを闇で落とせば、そのまま死ぬ。
指が、俺の掌の中で、前へ進もうとした。
引く力は、膂力ではなかった。読まれている方へ引かれている。磁石に近い。
「ネフィス。この小屋の、残り30人を見てろ」
「……立ちましたら、いかがいたしますか?」
「掴め。折るな」
読み上げが、理由まで進んだ。
理由は、短かった。
——6年前、東で数え終えた列から、外れた者。
腹の底が、灼けた。6年前の冬、東で2000を超える者が死んだ。ザルカが西へ4000人分を配って、東へ1袋も入れなかった冬だ。あのとき数え損ねた行が、上の帳にそのまま残っている。
その行を、いま、釣り合わせに使っている。
こいつらは、20年前の聖国でも、同じことをした。
若いのの指先に、光が乗った。
細い。糸より細い。あれが、首に触れれば、1本目になる。ドランには、まだ1本も無い。1本目を引かれたら、2本目までは、上の都合次第だ。
俺は、掴んだ手首を、自分の方へ引いた。
そして、その指の光を、口へ入れた。
味は、無かった。
だが、入ってくるものがあった。名と、年と、住んだ場所だ。ドラン。40と9。溜り村。それから、6年前に死んだ者の名が1つ、後ろにくっついてきた。
倅の名だ。
俺は、それを飲んだ。この男が6年、誰にも言えなかったものを、俺が先に飲んだことになる。
だが、吐き出せない。
小屋の中で、音がした。
振り返ると、2人目が立っていた。3人目も起きかけている。上は、1本引けなければ、次の手を出す。
俺は、掌を開いた。
6枚を、置かなかった。ここで極級を振れば、小屋ごと、30人が消える。
代わりに、俺は、口を開けたまま、列の前に立った。
「全部だ」
指が、次々に伸びた。
どれも、俺のところで止まる。その光を、俺は端から飲んだ。1本、2本、5本、10本。飲むたびに、知らない者の年が入ってくる。誰の母親か、誰の兄か、何を作っていたかまで入ってくる。
31本目を飲んだところで、立っていた者が、全部座った。
そして、また止まった。
空の線が、消えた。
途中でだ。読み上げの声が、最後まで行かずに切れている。読む先が、こちらで全部無くなった。
ネフィスが、帳面を持ったまま、こちらへ来た。
「……32人目は、いかがでございましたか?」
「出てねえ」
「では、書きません」
ネフィスは、そう言って、筆を袂に戻した。
それから、わずかに俺の後ろへ回って、止まった。書き手の止まり方だった。この女は、書くべきものを見つけたときに、必ず一度止まる。
「我が主。……お首の後ろでございますが」
俺は、手を、自分の項へやった。
指の腹に、線が1本あった。
飲んだ分が、そのまま、俺に引かれている。




