第199話 32人目
32人目は、まだ書いておりません。
わたしの帳面は、3日前から1冊増えました。1冊目は麦の帳面でございます。冬を越す分を、村ごとに、家ごとに書き付けてまいりました。2冊目は、止まった者の帳面でございます。
止まった順に、名と、年と、止まった刻限を書きます。
31行、書きました。
小屋は、麦倉の隣に取りました。
倉の壁は、東の領でいちばん風を通しません。止まった者は、寒さを言いません。それでも身体は冷えて、指の先から色が変わります。
わたしは、31人を6列に並べ、間に炭の櫃を置きました。
目は、全員開いております。
朝と晩に、布で湿しております。そうしなければ白く濁るのだと、薬師の女が申しました。
外で、声が上がりました。
戸を開けますと、村の者が20人ほど集まっておりました。先頭が、麦の差配を任せている男でございます。手に、鍬を持っておりました。
「ネフィス様。あれを、外へ出していただきたい」
「外の、どちらへでございましょう」
「谷へでも」
「谷は、この時期、水が出ます」
「出ますが、村には出ません」
この男が3日で何を考えたかが分かりました。止まった者は食べません。ですが、炭を使います。炭は、冬の分から出ております。
「理由を、伺ってもよろしいですか?」
「移ります」
「移った例は、ございません」
「まだ出ていないだけでございましょう」
わたしは、帳面を閉じました。
そして、男の後ろに立っている者を順に見ました。20人のうち、7人は、小屋の中に身内がおります。その7人が、いちばん後ろで俯いております。
口では、言えないのでございます。
「では、順に伺います。あなたの母上を、谷へ出しますか」
後ろの1人が、顔を上げました。
「……出しません」
「あなたの倅は」
「出しません」
「では、誰のを出しますか?」
誰も、答えませんでした。
鍬を持った男が、それでも一歩出ようとしました。
そこへ、横から腕が伸びて、鍬の柄を掴みました。その手が、大きゅうございました。顎に、焼けた傷のある男でございます。
ドランでございます。
「6年前、東で、そうやって出した村がある」
「ドラン殿」
「出した先を、俺は見た。倅を探しに行ったからだ。……谷の下に、38人いた」
ドランは、そう言って、鍬を放しました。
村の者の方は見ずに、小屋の戸の方へ歩いて、戸の前に立ちました。そのまま、動きません。
村の者は、散りました。
足が、速うございました。恥じているのではございません。夕刻までに、井戸の水を汲まねばならぬのでございます。
わたしは、その背中を見送りました。20人。減っておりません。今日は、まだよい日でございます。
空が明るくなりましたのは、その日の暮れ方でございました。
北でも南でもなく、真上でございます。細い線が1本、雲を抜けて降りてまいりました。降り口の下は、麦倉の屋根でございます。
わたしは、帳面を懐に入れました。
それから、小屋の戸の前へ参りました。ドランが、そこに立っております。
「来るぞ」
「左様で」
「どうする?」
「数えます」
ドランが、こちらを見ました。
「数えて、どうする」
「32人目でございます。……名と、年と、刻限を書きます。書いておけば、後で、誰が返すのかが分かるかと存じます」
線の下から、声が降りてまいりました。
読み上げる声でございます。抑揚がございません。名を読み、生まれた年を読み、住んだ場所を読みます。
それが、わたしの知っている名でございました。
ドラン。40と9。東の領、溜り村。
わたしは、筆を出しました。
そして、帳面を開きながら、この男の年を、わたしは知らなかったのだと気づきました。思っていたより、9つ多うございました。
「ネフィス」
「はい」
「倅の名も、書いておけ」
わたしは、筆を止めました。
この男は、いま初めて、自分の倅の名を人に言おうとしております。6年、誰にも言いませんでした。
言わせては、なりません。
言えば、それが最後の言葉になります。
「ご自分で、お書きください」
「書けねえよ」
「では、後で伺います」
読み上げが、住んだ場所まで進みました。
次が、数えられる理由でございます。そこまで読まれますと、首に、線が入ります。
わたしは、筆を持ったまま、動けませんでした。
そのとき、麦倉の壁の方で、空気が縦に裂けました。
縁が、黒うございました。
32人目の名を、わたしが書きます前に、あの方が跨いでまいりました。




