第197話 遅え返事
夜になって、村の外れに焚火が3つ焚かれた。
1つは村の者が、1つはヴィントが、残りの1つは兵が焚いた。火の周りに人が集まる。火の外側に、白いものが3つ立っていた。正す者だ。読む本を失っている。
誰も、追い払わなかった。
俺は、火から離れた石垣に腰を下ろした。
それから、掌の頁を見た。字が、暗いところでも読める。9番目の欄は、光で書いてある。上から2行目に、リィナの名がある。いちばん下に、アニカの名がある。
その間に、202並んでいる。
「隣、よろしいですか」
アステリアだった。
膝が戻ったばかりの歩き方で、石垣まで来て、こちらの返事を待たずに座った。昔から、訊いてから待たない。
「歩けるのか?」
「歩けます。……7歩までは、確かめました」
「泥の上でか?」
「泥の上でです」
俺は、火の方を見た。
火の向こうで、母親の方が立っている。座らない。18年、座る場所を持たなかった者の立ち方だ。あの女は、娘の座っている方を見ない。
「あんたの母親、こっちを見てねえぞ」
「見ています」
「見てねえだろう?」
「あの人は、見るときに、顔を向けません」
言い返すのは、やめた。アステリアの方が、あの女と長くいた。
「アステリア」
「はい」
「思い出した」
娘は、目だけをこちらへ寄越した。
身体の方は動かさない。動かせば、こちらが話をやめると思ったのだろう。人の話を、途中で折らない娘だ。
「回廊の、曲がり角でだ」
娘が、小さくうなずいた。
「あんた、俺に道を空けた」
「空けました」
火の方で、薪が小さく爆ぜた。
「そのあと、訊いたな」
「訊きました」
「俺は、答えなかった」
「……答えませんでした」
「答えようとしたら、床が抜けた」
娘が、そこで初めて、身体をこちらへ向けた。
顔が、火の明かりで半分だけ照らされていた。火の側の目が、少し光った。火のせいかもしれない。
「……ご存じなかったはずです」
「思い出したと言ってる」
「どなたが、返されましたか?」
「あんたの母親だ」
娘は黙って、自分の膝の上で指を組んだ。親指だけが動いていた。18年前と同じ組み方だ。聖国の堂で、白い外套の娘が、同じことをした。
「返事をする」
アステリアの親指が、止まった。
俺は、口を開いた。
言いかけて、止めた。18年前に言おうとした名が、先に出かかった。あれを言えば、聞いた側が同じ欄に入る。そうなれば、アステリアが品になる。
「……言えねえ方の名は、無しだ」
「無し、ですか?」
「代わりに、拾った方をやる」
「拾った、とは?」
「穴を出たところで、名を訊かれた。持ってなかったから、口から出た音をそのまま使った。……ゼノだ」
娘は、ひと呼吸おいてから、少し笑った。困ったときの笑い方だった。眉の端が下がる。この娘は、嬉しいときも困ったときも、同じところが下がる。
「わたしは、それを、ずっと呼んでいます」
「あんたが呼ぶのは、知ってる」
「……いまのは、答えになっていません」
俺は、そこで黙った。
確かに、そうだ。この娘が訊いたのは、番号ではない名だ。俺が渡したのは、行きずりに渡した音だ。渡す先が違う。
「他に無えんだ」
「はい」
「あのときの名は、俺の中にもう無え。18年前に、消された」
「存じています」
「だから——」
「いただきます」
娘は、両手を出した。何も乗っていない。その手を、そのまま、俺の方へ差し出した。
俺は、その手を見た。
何を乗せればいいのか、分からなかった。掌の頁を持ち替えて、空いた方の手で、その手の甲に触れた。
冷たかった。
「……あんた、手が冷てえな」
「天界の者は、みな冷たいです」
「火に、当たっとけ」
「そこは、違うことを仰る場面です」
俺は、その言い方に、返す言葉を探した。
出てこなかった。手を離すのも違う気がして、そのままにした。娘は、離せとは言わなかった。
火の方で、誰かが薪を足した。
「遅え返事だ」
「はい。18年、遅いです」
娘は、触れられたままの手を、少しだけ握り直した。




