第196話 折り直しました
母が、広場に立っていました。
泥の上です。右足にだけ靴を履いて、左は裸足でした。髪は垂らしたままです。天界では、あの髪をあの長さで垂らす者はいません。束ねる紐を、18年、誰も渡さなかったのだと思いました。
わたしは、壁に背をつけたまま、それを見ていました。
膝は、まだ立ちません。
両手を泥について、身体を前へ倒しました。その勢いで片膝を立てましたが、すぐに折れました。
そこへ、リィナ様が来ようとしました。
「いけません」
母が、そう言いました。
リィナ様が、足を止めました。
母を見て、それから、わたしを見ました。この方は、迷ったときに、いつも先に足を止めます。
「……なぜですか」
「その子は、自分で立ちます」
わたしは、もう一度、膝を立てました。
今度は、折れる前に、もう片方を出しました。足の裏が泥を掴んで、そこへ体重を移しました。
立ちました。
それから、顔を上げました。
母は、そこに立ったままでした。近づいても来ません。18年前と同じです。この人は、いつも、こちらが歩き終わるのを待ちます。
わたしは、泥の上を、7歩、歩きました。
7歩で、母の前に着きました。
言葉が、出ませんでした。18年、考えていた言葉は、いくつもあります。並べて、順番も決めていました。その順番が、全部、どこかへ行きました。
「……お久しぶりです」
出てきたのは、その1つでした。
「はい」
母の返事は、それだけです。抱きもしません。手も出しません。目だけが、わたしの顔の上を、上から下へ動きました。歳を数えている目でした。
「大きくなりました」
「わたしは、18年前から、この背丈です」
「……そうでしたか」
わたしは、少し腹が立ちました。
この人は、わたしの背丈を覚えていませんでした。18年、井戸の向こうで押さえになっていた人です。押さえになる前の日まで、わたしはこの人の隣で次元魔法を習っていました。
「なぜ、18年、いらっしゃらなかったのですか」
「行けませんでした」
「行かなかったのではなく?」
「……行けませんでした」
母は、同じ言葉を2度使いました。
2度目の方が、少し低い声でした。この人は、言わないと決めたことを、声の高さで閉じます。
わたしは、その閉じ方を知っています。子供の頃、何度も見ました。
「母上」
母の目が、こちらへ来ました。
「首を、お見せください」
母は、髪に手をやりませんでした。
わたしの後ろを見ました。そこに、ゼノが立っています。泥の上に、片足だけ乗せて、こちらを見ていました。
「その方に、もう見せました」
「わたしにも、見せてください」
「見ても、何も変わりません」
「変わらなくて結構です」
母は、そこで、少し目を細めました。
それから、髪を横へ寄せました。その下に、線が2本ありました。
わたしは、その2本を見ました。
膝が、抜けそうになりました。足の指で泥を掴んで、止めました。ここで座れば、この人がまた、自分で立てと言います。
「いつ、引かれましたか?」
「昨日でございます」
母の指は、寄せた髪を押さえたままでした。
「何を、なさいました?」
「1つ、書きました」
「誰の名ですか?」
「聖国の娘です」
母の指が、押さえていた髪から離れました。
「20年前に、わたくしが受け取りに参りました。……預かったものを、返しに行っただけでございます」
「……母上は、いつも、そうです」
「はい」
「わたしに、断ってくださったことが、一度もありません」
「ございません」
わたしは、言いたかったことを言いました。
「わたしは、止めたかったのです」
母は、答えませんでした。
こちらへ、初めて1歩、近づいて、手を上げました。その手が、わたしの顔ではなく、右の肩の後ろへ回りました。
翼です。
わたしの右の翼は、畳み方が下手です。
子供の頃から、右だけ、最後のひと折りが外を向きます。天界では笑われました。母は、笑わずに、いつも黙って折り直しました。
泥の上で、その手が、同じところを掴みました。
母は、18年ぶりに、わたしの右の翼を、正しい向きに折り直しました。




