第195話 そこに、線が2本
「アニカ」
紙の最後の行は、そう読めた。筆の入りが浅く、抜きだけが深い。
3文字だ。他の行より、少し下に寄っている。欄の端を外さないように、気をつけて書き足した字だ。
「ミト」
「はい」
「その白い人は、どんな形をしてた?」
「女の人です」
ミトは、自分の外套の裾を指で摘んで、膝の下あたりまで持ち上げた。
「ここが、濡れていました」
「膝から下がか?」
「はい。石の色でした」
聞いた瞬間に、峠の祠が戻ってきた。膝から下が岩になっていた女だ。岩から戻ったばかりの足は、しばらく、石の色をしている。
「片方だけ、靴を履いていましたか?」
エイドリクが、床から顔を上げて、そう訊いた。
ミトは、頷いた。
「右だけです」
「なんで、あんたが知ってる?」
俺は、審問官にそう訊いた。
エイドリクは、口元を拭って、壁に手をつきながら立ち上がった。人間が魔界の空気に慣れるには、まだ半日は要る。
「20年前、受け取りに来た者が、そうでございました」
20年前、聖国から娘を受け取りに来たのは、あの女だ。娘を1人持っていった手で、18年前、俺の落ちる先を彫った。
同じ手が、昨日の朝、厨房の窓に紙を置いていった。
「ヴェルナ」
ヴェルナが、書類を胸に抱えたまま顔を上げた。
「東へ、誰を出せる?」
「今から出せますのは、200でございます。……東まで、6日かかります」
「6日で、何人止まる?」
「31が3日でございますから、62でございましょうか」
この女は、俺が訊く前に、日数まで数えていた。ヴェルナは、いつもそうだ。訊かれた数の隣の数を、先に出しておく。
「200出せ。ネフィスの村に入れろ」
「承知いたしました」
「入って、何もするな。数が止まった者を、屋根の下へ運べ。それだけだ」
「陛下」
ルシェが、立ったまま、俺を呼んだ。
まだ歩けていない。立っているだけで、額に汗が浮いている。それでも、この女は、座らない。
「わたくしは、何をいたしましょう」
「立ってろ」
「……それだけで、ございますか」
「8年ぶりだ。今日は、それだけでいい」
俺は、階段を降りた。
床に闇を1枚伏せた。闇が、さっき跨いだ場所を探して、止まった。縁は、まだそこにある。開けた者が極級なら、縁は勝手に閉じない。
跨ぐ先を、峠ではなく、村にした。
足の下に、泥があった。
村の広場だ。雨が降ったあとらしい。地面が柔らかい。その真ん中に、蹄鉄で引いた円が残っていた。
その円の中に、女が1人、立っていた。
白い。
髪が長い。垂らしたままだ。膝から下が濡れている。右足にだけ、靴を履いていた。
セレスティアだ。
「書いたのは、あんたか?」
「はい」
「なんで勝手に——」
「あなたが、今日、正されないためでございます」
この女が18年前にやったことと、昨日の朝にやったことが、同じ形をしているのが分かった。この女は、誰にも訊かずに払って、あとで報告する。
「訊けよ」
「訊けば、あなたはお止めになります」
「当たり前だ」
「ですから、訊きません」
俺は、掌の6枚を握り直した。
振る先が無い。俺が腹を立てている相手が、こちらに背を向けもせずに立っている。そういう相手に、極級を振るわけにはいかない。
「……あんた、名が無えだろう」
「ございません」
「名の無え奴が書いても、帳は動かねえはずだ」
「動きません」
セレスティアは、そう答えた。
「わたくしが書きましたのは、帳ではございません。あなたの欄でございます。……欄は、あなたのものです。あなたのものに書くのに、要るのは名ではございません」
「何が要る?」
「手でございます」
俺は、その手を見た。
指が5本ある。18年前、井戸の石に座を彫った手だ。爪が割れている。その下に、白いものが詰まっていた。
石の粉ではない。紙の粉だった。
「それで、あんたはどうなった?」
「わたくしは、何も」
「見せろ」
セレスティアは、そこで初めて、答えるまでに間を置いた。
それから、自分の髪を横へ寄せた。項が出た。白い。細い。
そこに、線が2本あった。




