第194話 1つ増えている
ルシェは、立たなかった。
足が段に着いたまま、しばらく、そのままでいた。両手を石の段について、肩で息をしている。8年、動かさなかった足だ。着いただけで、動きはしない。
俺は、その前に立っていた。手は出さなかった。
「陛下」
「あぁ」
「……見ないでくださいませ」
「見てる」
ルシェは、段の縁を掴んで、自分の身体を引き上げた。膝が、途中で折れた。それを、もう一度、腕で持ち直した。落ちた分だけ、また上げた。
3度目で、立った。
この女は、何も言わなかった。
自分の足元を見ていた。爪先が、段の石の目地に触れている。そこから、自分の重さが下へ抜けていくのを、確かめている顔だった。
「歩けるか?」
「歩けません」
「そうか」
「……歩けませんが、立っております」
階段の上で、靴音がした。
ヴェルナだ。書類を持ったまま降りてきて、途中で止まった。ルシェが立っているのを見て、ではない。俺の後ろに、人間が1人いた。
エイドリクは、床に手をついて吐いていた。
「我が君。そちらは」
「聖国の審問官だ」
「……なぜ、ここに?」
「異端になったんだと。行く先が無えらしい」
ヴェルナは、そこで、書類を持ち直した。
それ以上は、訊かなかった。この女は、18年、訊かない訓練をしてきている。その代わりに、あとで全部調べる。
「ヴェルナ。紙を見ろ」
俺は、掌の頁を差し出した。
それを見た途端に、ヴェルナの指が止まった。
それから、顔を上げた。
「……床下の、7通と同じ紙でございます」
「同じ場所で作られてる」
「これは、何でございますか?」
「9番目の欄だ。202人入ってる」
ヴェルナは、その数を、口の中で繰り返した。
それから、書類を脇へ置いて、頁の下の方を指で追った。指が、途中で止まった。
その行に、何が書いてあるかは、俺も知っている。
「ラント、と」
「あぁ」
「……グラン殿の、倅でございます」
「3年ぶりに、歩いてる。いまは聖都だ」
ヴェルナは、そこで一度、目を閉じた。
目を開けて、口を開きかけて、やめた。
「北の砦へ、お使いを出してよろしゅうございますか」
「出せ」
「……文には、何と」
「歩いてる、とだけ書け」
書いて済む話ではない。
グランは、18年、1100を出し続けた男だ。出した中に、自分の倅が入っている。倅が生きていたと文で読まされて、その場で立っていられる男かどうかは、俺は知らない。
だが、文を出すのを止める理由にはならない。
「陛下」
ルシェが、立ったまま、そう言った。
辛いのは、声で分かった。腹から出ていない。それでも、この女は座らなかった。
「東の領から、3日前に使いが参りました」
「ネフィスか」
「いいえ。ネフィス様の、書き役でございます」
「本人は?」
「東に残っております。……村から動けぬそうでございます」
人間界の村の8人を、上は持っていけなかった。持っていけなかった分を、別のところで数え始めている。
「東で、何が起きてる?」
「立ったまま動かなくなる者が出ております」
ルシェは、そう答えた。
「3日で、31人でございます。首の後ろに、線が1本」
31は、人間界の村で最初に立っていた数と同じだ。この者たちは、いつも同じ手順で数える。
首の線を引いたのは、上だ。
頁は、村にある。リィナが抱えている。
それなのに、東では数が始まっている。
「読む本は、1冊じゃねえのか?」
「存じません」
俺は、階段の上を見た。
廊下の角に、小さいのが立っていた。外套を着ている。裏地の白いところが、少しだけ見えていた。
ミトだ。
その子は、こちらへ歩いてきた。
足が、この前より遅い。肘から先が一度消えた子だ。戻った腕を、いまは、外套の中に入れて歩いている。
俺の前で止まって、紙を1枚出した。
「置いていきました」
「誰がだ?」
「白い人です。厨房の窓のところに、立っていました」
「いつだ?」
「昨日の朝です」
俺は、その紙を受け取った。
広げた。写しだ。9番目の欄の写しが、上から順に書いてある。ゼノ。リィナ。そこから202まで、俺が入れた順のままだ。
いちばん下に、1行、余計にあった。
字が、他と違う。
他の行は、置かれたように出ている。この1行だけ、筆で書いてあった。その走りが、東の棚の7通目と同じだ。途中で一度、筆を置いて、また持ち直している。
書いてある字は、3文字だった。




