第193話 床を踏んだ
堂の扉を開けさせたのは、ラントだった。
俺が開けろと言ったのではない。あの男が、202人の前に立って、扉の方を指して、こう言った。
「外の明るさに、慣れておいた方がようございます。……3年、明るくも暗くもない場所におりましたので」
扉が開いて、光が入った。
その光の中へ、202人が出ていった。外は、聖都の広場だ。朝の市が立つ時刻で、人が多い。その人混みへ、3年前の服を着た者が、並んで出た。
広場が、静かになった。
そこへ、年寄りが出てきた。
祭服の裾を持ち上げて、階段の上に立って、両手を広げた。その形で、何を言うつもりかが分かった。
「奇跡と言うなよ」
俺は、そう言った。
年寄りは、手を下ろさなかった。
俺の方へ、顔だけ向けた。
「では、何と申せばよろしいので」
「帳尻だ。あんたらが20年、帳尻を合わせた。その分が、今日、歩いて返ってきた。……それだけだ」
「民は、その言い方では、跪きません」
「跪かせてえのか?」
「跪く者は、数を出しませんので」
この年寄りが20年やってきたことが、ひと繋がりに見えた。跪かせて、静かにさせて、その間に1人ずつ渡す。渡した分を、奇跡で埋める。
ラントが、階段の下から、こちらを見上げた。
何も言わない。俺の口から順番が出るのを待っている。3年、白い場所で順番を覚えていた男だ。
俺は、階段を降りた。
「あんたが仕切れ」
「……わたくしがでございますか」
「202人の順を覚えてるのは、あんただけだ。行き先も、順に訊いていけ」
「訊いて、どういたしますので?」
「帰るなり、残るなり、勝手に決めさせろ」
ラントは、そこで少し黙った。
それから、袖の中で握っていた指を、外へ出した。その腹に、筆の胼胝がある。18年、名簿を書いた指だ。
「名簿を、また書くことになりますな」
「今度は、行き先の方だ」
俺は、アニカの方を見た。
白い外套の娘は、階段の途中に立っていた。裸足のままだ。誰も、この娘に靴を出さない。20年、そういう扱いをしてきた者しか、この国にいない。
「あんたは、どうしたい?」
娘は、答えなかった。
階段の石を、足の裏でもう一度探った。それから、広場の人を見た。人が、こちらを見ている。誰も、名を呼ばない。この広場に、あの名を知る者はいない。
「わたしは、まだ、決められません」
「なら、決めるな」
俺は、それだけ言って、広場の端へ歩きながら、掌を開いた。6枚が、まだ乗っている。落ちてから一度も崩していない。この級に届いた者でなければ、こうは持っていられない。
界の切れ目を探した。
聖都の地面には、無かった。
ここは、界の真ん中だ。境は、端にある。谷と、ラセルと、ローデン砦。俺が知っている3点は、どれも遠い。
だが、もう1つある。
閉じ切っていない穴が、1つだけある。
8年前に鍛冶の者が開けて、拳2つ分のまま縮み切らなかった穴だ。あれは、こちら側から押さえが利いている。なら、こちらからでも見つけられる。
俺は、闇を1枚、地面に伏せた。
闇が、西へ滑った。
少し行って、止まった。何も無い。なのに、その場所だけ、温度が2度低い。ルシェの踝で触ったのと同じ冷たさだった。
穴は、場所ではない。縁だ。縁は、どこにでも引き出せる。
2枚目を重ねた。3枚目を重ねた。
4枚で、地面に円が浮いた。拳3つ分だ。城で試したときと同じところで、止まった。あのときは、ここまでだった。
俺は、5枚目を置いた。
円が、開いた。
肩の幅になった。6枚目を置いたところで、縁が、人の通る形になった。開いた縁の内側が、白くない。向こう側の石が、直接見えている。
階段だ。
後ろで、足音がした。
振り返ると、エイドリクが立っていた。片手に、さっき自分の名を書いた紙を持っている。折らずに、そのまま持っていた。
「どこへ行かれる?」
「魔界だ」
「……お連れいただけるか」
「あんた、異端だろう?」
「はい。ですので、この国に用がございません」
俺は、その言い方に、少し笑った。
それから、円の方へ顎を向けた。この男が来ようが来まいが、俺の都合は変わらない。
「1歩目で吐くぞ」
「吐きます」
俺は、円を跨いだ。
その間に、掌の頁を握り直した。202人の名は、どれも欄に載ったままだ。身体だけが、広場の石の上を歩いている。跨ぐ間に何を握っているか——セレスティアは、そう言っていた。
向こう側に、石の段があった。
見覚えのある段だ。4段目に、女が座っている。
銀髪だ。片方の足を投げ出して、もう片方を膝の上に載せている。その足を、掌で撫でていた。8年、誰も見ていないはずの撫で方だった。
女が、顔を上げた。
その目が、俺を見た。
何も言わずに、自分の足の甲を、もう一度だけ撫でた。それから、その足を下の段へ下ろした。
段に、着いた。
8年ぶりに、この女の足の裏が、石を踏んだ。




