第192話 アニカ
「数えねえ」
娘の指が、止まった。組んだままの手が、胸の前で少し下がった。それだけだ。顔は、動かさなかった。20年、顔を動かさない訓練をされている。
壇の下で、年寄りが息を吐いた。安堵の吐き方だった。
「あんた、10のときに、何て呼ばれてた?」
「……存じません」
「忘れたのか?」
「呼ばれておりませんので」
王都の門の前を思い出した。あのとき俺には名が無かった。訊かれて、口から出た音を、そのまま名にした。あれは拾ったのではない。呼ばれる用の音を、自分で作った。
聖女には、作る音すら渡されていない。
「20年前の記録は、どこだ」
「焼きました」
壇の下から、年寄りが答えた。
「渡した者の記録を残しますと、渡した事実が残ります。……残しておけば、いずれ返せと言われますので」
俺は、腕を上げかけた。
途中で下ろした。堂に202人が立っている。振れば、この年寄りごと、床の者が消える。
「知っている」
そう言ったのは、扉の側からだった。
エイドリクだ。剣の柄から手を離したまま、20人の兵の前に立っている。声が、さっきより低かった。
「……20年前、わたしは18でした。写字の見習いで、受け取りの名簿を清書いたしました」
「覚えてるのか?」
「1行しか、書いておりません。……そういう名簿は、忘れられるものではないのです」
年寄りが、椅子の肘掛けを掴んだ。
手に、力が入っていた。この年寄りは、この20年、エイドリクを使ってきた。その相手が、いま、自分の後ろで口を開いている。
「審問官」
「はい」
「その先を申せば、貴殿が異端となる」
エイドリクは、答えなかった。
堂の床を歩いてきて、壇の下で止まり、白い外套の娘を見た。20年、自分が「あの方」と呼んできた娘だ。
それから、俺の方へ顔を上げた。
「その名を、ここで申し上げてよろしいか」
「あんたが決めろ」
「……わたしが、でございますか」
「あんたが書いた1行だ」
エイドリクは、そこで一度、目を閉じた。
それから、開いた。目が、さっきまでと違っていた。
「アニカ」
白い外套が、動いた。
娘が、こちらへ向けていた顔を、初めて横へ回した。その先に、審問官が立っている。娘は、その男を見たまま、口を開けた。
何も言わなかった。
「北の漁村の出でございます。父は網を、母は塩を扱っておりました。名簿には、村の名と、歳と、その名だけが」
エイドリクは、娘を見たまま続けた。
「……20年、わたしは、その1行を諳んじて参りました。口の中で繰り返しながら、あの方を神託の器と呼んでおりました」
俺は、壇の上から、娘を見た。
その名を、口の中で一度、転がした。上の帳で、俺はこの名を見ていない。9枚目の頁にも無い。この国の頁にあるのは、聖女という役の名だ。
「アニカ」
俺は、そう呼んだ。
途端に、娘の足が動いた。石の上で、爪先が縮んだ。20年、裸足で歩いてきた足が、いま初めて、床の冷たさを拾っていた。
娘は、自分の足を見た。
次に、俺を見た。それから、堂の床に立っている202人を見た。前の方にいる何人かは、この娘を見知っている顔をしていた。
「……いま、呼ばれました」
「あぁ」
「わたし、呼ばれると、こうなるのですか?」
返す言葉を探して、やめた。アニカは、返事を待っていない。そういう者に返事をすれば、こちらの言葉を押しつけるだけだ。
代わりに、俺は年寄りの方を見た。
「その名は、あんたらの頁に載ってるか」
「……載っておりません」
「聖女ってのは、載ってるな」
「役でございますので」
「なら、この娘は、今日から載ってねえ」
年寄りが、口を開いた。
何も出さずに閉じた。それから、壇の3段を降りて、足の裏で床を探るようにして、自分の椅子へ戻った。
年寄りは、いま、自分の帳面に何を書くかを考えている。
エイドリクが、床に膝をついた。
懐から紙を出した。折り目の付いた紙だ。20年、持ち歩いた折り方をしていた。広げて、床に置いて、矢立を抜いた。
「何を書く?」
「名簿でございます」
「誰の名簿だ?」
「異端の」
審問官は、そう答えた。
それから、紙の1行目に、筆を下ろした。
この男は、自分の名を書いた。




