第186話 その2行目は
膝が、地面に着く前に止まりました。
掴んでいたのはヴィント様の手です。熱い手でした。火を扱う人の掌は、いつもこうです。掴まれたまま、わたしは自分の耳を疑いました。読み上げが、途中で止まっていたからです。
白いものは、口を開けたままでした。
次の音が出てきません。喉は動いているのに、音にならない。読もうとしている名が、口の中で見つからないという顔でした。顔は覚えられないのに、困っているのだけは分かりました。
「首の後ろを、見せてください」
ヴィント様が、わたしの襟を下げて、少し黙りました。それから、指で一度、そこを擦りました。痛みはありません。冷たいものも、ありません。
「消えています」
「1本目がですか?」
「1本も、ありません」
わたしは、立って、剣の柄を握り直しました。そうしながら、村の人に声をかけようとしました。円のすぐ外にいるのは、蓑を被った父親です。倅を持っていかれる方の、あの人です。
その人が、わたしを見て、口を開いて、止まりました。さっきの白いものと同じ顔です。呼ぼうとして、呼ぶものが見つからない顔でした。
「……あんた」
「はい」
「あんたの名は、何だった?」
わたしは、答えました。
その人は、聞こえなかったという風に首を傾けました。ヴィント様が、指で地面に字を書きました。その人は、それを読んで、声に出しました。
音が、途中で消えました。
「上で、何かが起きましたね」
ヴィント様が、そう言いました。
「読まれる前に、誰かが先に読んだのだと思います。……僕のときは、こうはなりませんでした」
「ゼノ様ですか?」
「他にいますか」
わたしは、空を見ました。
階は、4本のままでした。3本の下に、白いものが3つ立っています。1つはわたしの前で口を開けたまま止まり、残る2つは、円の中の8人の方を向いていました。
そのうちの1つが、また読み始めました。
今度は、わたしの名ではありませんでした。
あの父親の名でした。名の後ろに、生まれた年が続きます。住んだ場所が続きます。数えられる理由が続きます。読み終われば、2本目が引かれます。
わたしは、走りました。
間に入って、剣を突き出して、白いものの喉へ入れました。入る、と思いました。実際には、刺さりませんでした。剣の先が、布を裂くときの手応えも無く、そのまま通り抜けました。
それなのに、読み上げが止まりました。
わたしが、そこに立っていたからでした。
白いものが、わたしの方を見て、また口を開けて、閉じました。わたしが、この者には読めない。読めないものが、読む相手との間に立っている。
「……あの」
ヴィント様が、後ろから声をかけました。
「動かないでください。……いま、あなたが盾になっています」
「わたしは、何にもされないのですか?」
「されません。帳に、あなたが居ませんので」
足の裏の痛みを思い出しました。3日、走ってきた足です。布を解いて巻いた足です。その足で、いま、わたしはこの村の8人の前に立っています。
誰も、わたしの名を呼べません。
胸の奥が、少し寒くなりました。
怖いのとは、違いました。剣を抜いたまま、わたしは自分の名を一度だけ、口の中で言ってみました。言えました。聞く人が、いないだけです。
白いものが、本を開き直しました。
わたしは、その本を見ました。光で書かれています。紙ではありません。ゼノ様は、これを闇で滲ませて潰されたと聞いています。わたしに闇はありません。
ありませんが、手はあります。
わたしは、剣を捨てて、両手で、その本を掴みました。掴めるはずがありません。光です。手は通り抜けるはずです。
通り抜けませんでした。
指が、頁の端にかかりました。
その瞬間に、白いものが、初めて身体を引きました。この者たちは、下のものに触れません。触れないかわりに、下のものからも触れられない。
帳に居ない手だけが、触れます。
わたしは、引きました。
本は、思ったより重くありませんでした。軽いのに、抱えると、腕の内側が焼けるように熱くなりました。そのまま、わたしは3歩下がって、それを胸の前で開きました。
1枚目に、欄がありました。
ヴィント様が息を呑んだのが、後ろで聞こえました。欄の1行目に、名が書いてあります。
ゼノ。
わたしは、その2文字を見て、指で触れようとして、やめました。その下に、もう1行ありました。書かれたばかりの字でした。まだ乾いていない字のように、輪郭が少し滲んでいます。
その2行目は、わたしの名でした。




