第185話 名が2つ
「帳は、どこだ」
「こちらです」
数える者は、白い床を歩き出した。歩き方に音が無い。俺は、その後ろを歩いた。俺の足音だけが、白い場所に落ちていた。
行き着いた先に、部屋は無かった。
壁も、扉も、区切りも無い。ただ、ある場所から先だけ、白が少し厚くなっていた。その中に、頁が浮いている。1枚ではない。果ての見えない枚数が、縦に重なって、上へ伸びていた。
「これが、上の帳です」
俺は、手近な1枚に近づいた。
字が、動いていた。書かれた字が止まっていない。線の端が、少しずつ伸びたり、縮んだりしている。伸びている線は、下で誰かが生きている線だ。
縮んでいる線が、1本あった。縮み切ると、その名が薄くなって、次の行が上へ詰まった。
「いま、1人死んだな」
「はい。人間界の東で、67の女が」
「名は?」
「名は、読みません。数えるだけです」
俺は、頁の並びを目で追った。途中で、欄の形が変わる場所があった。それまでの頁は横に長い。ある高さから上は、縦に細い。細い方の頁には、名が1つずつしか書かれていなかった。
「上の方は、何だ?」
「座です」
数える者は、そう言って、指を上へ向けた。その先に、細い頁が並んでいる。1枚。2枚。順に見ていくと、9枚目だけ、他より白かった。
何も書かれていない。
その1枚だけ、字の代わりに、線が1本、横に引かれていた。その下に、削った跡がある。削った者の手が、途中で一度、止まっている。
「これか」
「はい」
「削ったのは、セレスティアだな」
「はい。……ご自分の名を削って、代わりに、そこへ線を引かれました」
俺は、その線を見た。
18年、ここに線が1本だけ引いてあった。名の無い座には、誰も就けない。だから、正す者は7人のままだった。
その線の下に、いま、字が浮いていた。
ゼノ。
俺が、北の穴を出た坂の下で、自分の口から出した音だ。あのとき俺は、助けた娘に名を訊かれて、適当に切って答えた。
「……勝手に載ってやがる」
「載せたのは、あなたです。欄を内側から開けられました」
俺は、頁から手を離して、下を向いた。
下は、白いが、透けている。その先に、厚みが見える。厚みの中に、峠があり、村がある。村の広場に、小さいものが幾つか集まっていた。井戸の縁に、馬が2頭、繋いである。
その中に、3つ、白いものが立っている。
「あれを、止められるか」
「こちらには、できません」
「あんたじゃねえ。俺だ」
数える者は、初めて、答えるまでに間を置いてから、口を開いた。
「……座に就いた者は、頁の名を読めます。読まれた名は、他の者が読めなくなります」
「重ねて読めねえってことか」
「はい。1つの名を、2人が同時には数えられません。帳が壊れますので」
俺は、村の頁を探した。
手間はかからなかった。頁の方が、こちらへ寄ってきた。9番目の座に立っている者の手の下に、読まれている最中の頁が集まる。そういう作りらしい。
その頁の、上から4行目に、名があった。
リィナ。
線が、1本引かれている。その下に、2本目が引かれかけていた。書いている途中で、線の先が、まだ震えている。
書いている者が、下で読み上げている途中だ。
俺は、その行に指を当てた。その瞬間に、声が聞こえた。下で読んでいる声だ。名の後ろに続きがある。生まれた年と、住んだ場所と、数えられる理由を、順に読んでいる。
読み終わったところで、2本目が引かれる。
「先に読めば、どうなる?」
「その者は、あなたの数に入ります」
「俺の数ってのは、どこにある?」
「9番目の欄です」
俺は、9枚目の頁を、もう一度見た。
ゼノという2文字だけが載っている。他は白い。この白い場所に、名を1つ書き足すということだ。
「書き足した奴は、どうなる?」
「あなたと同じ扱いになります」
「同じってのは」
「正される日が来ましたときに、同じ日に正されます」
俺は、そこで手を止めた。
迷っていた。そのことに、自分で腹が立った。18年前なら、俺はこんな頁を1枚残らず食って、後のことは後で考えている。
いまは、食えば村の8人が持っていかれる。食わなければ、リィナの首に2本目が引かれる。
下から、声が上がってきた。声は、梯子を伝うように、厚みの中を真っ直ぐ上がってきた。
読み上げている声ではない。別の声だ。細い。何か言っている。名を呼んでいる。
——ゼノ様。
その声で、あの娘が、まだ広場に立っているのが分かった。
俺は、指に力を入れて、4行目を読んだ。声には出さない。出さなくていい。この場所では、読むというのは、そういうことではなかった。
リィナ。
頁の上で、1本目の線が消えて、その名が、4行目から抜けた。その分だけ、下の行が上へ詰まった。頁の白い場所に、下で読んでいた者の筆が、行き場を失って止まっていた。
俺は、9枚目の頁を見た。
ゼノ、と書いてある。その下に、もう1つ、字が浮いた。
浮き方が、俺のときと違った。俺の名は、下から押し上げるように出た。この名は、上から置かれたように出た。その字が、白の上で、一度だけ小さく震えた。




