第182話 お名前を、教えてくださいませんか
「聞く」
セレスティアは、祠の石に手をついたまま、俺を見た。それから、空いている方の手を、こちらへ伸ばした。
「口では、返せません。……額に、触れます」
「触れると、どうなる?」
「思い出します」
「あんたの言葉でか」
「いいえ。あの日のままです」
彼女の指が、俺の額に触れた。
冷たい。岩の中に18年いた者の手だ。触れた場所から、内側へ何かが入った。その先に、抜けたままの場所があった。
白い。
回廊だ。壁も床も白い。天井が無い。天井の代わりに、上の方が、だんだん薄くなって消えている。
俺は、そこを歩いていた。歩かされていたのではない。自分で歩いた。品として出されると決まった日に、俺は自分の足でそこを渡っている。
後ろに、誰もいなかった。
前にも、誰もいなかった。しばらく歩くと、回廊が右へ曲がった。その角に、娘が1人、立っていた。
背が低い。俺の肩までもない。翼を畳んでいるが、畳み方が下手で、右の方が少し開いていた。
その娘は、俺を見て、道を空けた。
「あの、失礼ですが」
俺は、足を止めた。天界に入ってから、誰かが俺に話しかけたのは、初めてだった。
「品の方ですか?」
「そうだ」
「……そう、ですか」
娘は、下を向いて、少し、指を組んだ。親指だけが動いていた。
「品は、数えられるときに、番号で呼ばれます」
「聞いてる」
「今日の番号は、7でございました」
「そうか」
「……7番、とお呼びするのは、嫌でございます」
この娘が何を言っているのかが、分からなかった。
嫌だと言われても、俺の知ったことではない。番号で呼ばれようが、名で呼ばれようが、渡された先で消えることは変わらない。
「だから、どうした?」
「ですから」
娘は、顔を上げた。目の端が下がっていた。
「お名前を、教えてくださいませんか」
俺は、口を開いた。
息を吸ったところで、後ろで音がした。布が擦れる音だった。
白い者が2人、回廊の端に立っていた。1人が、紙を持っていた。
「——遅うございました」
そう言われた瞬間に、床が無くなった。正しくは、俺の下だけ、白が抜けた。その穴へ、俺は落ちた。
落ちながら、上を見た。娘が、こちらを覗き込んで、口を動かしていた。何を言ったのかは、聞こえない。声が届くより先に、俺は落ちていた。
俺は、名乗らなかった。名乗らなかったのではない。吸った息が、そのまま胸に残った。
指が、離れた。
峠だ。夜が明けていた。祠の石に、朝の光が斜めに当たっている。
俺は、そこに立っていた。額に、指の冷たさが残っていた。
「……18年、これか」
「これです。あの子は、名を訊いただけです。わたくしが消したのは、その1つだけです」
「なんで、それを消した?」
「あなたが、答えようとしましたので」
さっきの回廊を、もう一度思い出した。俺は息を吸って、それから落ちた。答える寸前だった。
「答えたら、どうなった?」
「名が、あの子の側の帳に載ります。品が自分から名乗り、それを受け取った者がいる。……その場合、聞いた側も、同じ欄に入ります」
「あの娘が、品になるのか?」
「なります」
「……それで、俺の側だけ消したのか」
「はい」
セレスティアは、石から手を離して、自分の足で立ち、東を向いた。日が出ている。18年ぶりに、この女は日の出を正面から見ていた。
声が、さっきより低かった。
「消したあとで、あの子は、自分が何を言ったかを覚えていました」
「覚えてたのか」
「はい」
俺は、そこで腹の底が重くなった。
18年、あの娘は、自分が訊いたことを覚えている。訊いた相手が何も答えずに落ちたことも、覚えている。
覚えたまま、アステリアは下へ降りてきて、俺の前に立って、返事をもらっていない、と言った。
「あんた、娘に言わなかったのか?」
「言いません」
「なんでだ?」
「言えば、あの子の中で、わたくしが正しかったことになります」
セレスティアの目は、まだ日の出の方にあった。
「わたくしは、あの子から18年を取りました。……正しかったことにすると、取った分が、無かったことになります」
ヴェルナが絵を売った話を思い出した。あの女も、8年、誰にも言わなかった。
「あの子に、返しなさい」
セレスティアは、そう言った。
言い方が、頼む形ではなかった。命じる形でもない。渡す形だった。
「わたくしにではありません。……あの子にです」
俺は、峠の下を見た。
南へ道が続いている。細い。20年前に塞いだ道だ。降りれば、村まで2日。
2日で、間に合うか。
間に合わない。分かっているのに、俺は歩き出して、5歩で足を止めた。
南の空が、光った。
5本。
細い線が5本、空から降りてきていた。降り口だ。一昨夜の2本目より、さらに暗い。そのまま、下の端が村の方角へ向いている。
「……7人の降り口ですね」
「あぁ」
「ゼノ」
セレスティアが、初めて、俺を名で呼んだ。
「あなたは、いま、握るものを1つ持っています」
「何のことだ?」
「返していない返事です」
空の5本を見た。あれは、天界から下りてくる階だ。降りてくるものがあるなら、上がるものもある。
跨ぐ穴なら、いま、空に5つ開いている。




