第180話 わたくしは、あなたに頼みません
席の空け方は、ラントが教えた。
「その娘の肩に、手を置いてくださいませ。……置いたまま、1つ、と仰ってください」
「数えるのか?」
「はい。……こちらから押し出すことは、できません。下から数えていただく形だけでございます」
ミラは、10歩ほど離れたところに立っていた。
麻の紐で髪を束ねた娘だ。村の広場で上を向いていた者が、ここでは上を向いていない。俯いている。爪先だけが、まだ薄い。
こちらへ来ているのは、半分だ。
俺は、その肩に手を置いた。
掌の下に、厚みが半分しか無かった。布の感触はある。その下が、無い。押せば抜けそうだった。
「1つだ」
娘の爪先が、濃くなった。
それから、全体が引かれた。下へではなく、横へだ。この場所に上下は無い。娘は遠くなって、見えなくなった。
娘のいた場所に、ラントが立った。
歩いてきたのではない。
その場所に立つ者が、入れ替わった。ラントは、さっきまで俺の正面にいた。いまは、10歩先に立っている。
「行ってくださいませ」
「あぁ」
「……1つ、と、もう一度、仰っていただけますか」
「1つだ」
「はい」
彼の顔が、また、右の頬だけで笑った。
俺は、歩いた。
202人の間を抜けるあいだ、誰の顔も見なかった。見れば数えたくなる。数えれば、全部連れて出たくなる。
白が、途中で切れた。
切れ目といっても、縦に1本、白より薄い色の線が入っているだけだった。その線に手を当てると、指が向こうへ抜けた。
その先から、風が来た。冷たい。草の匂いが混じっていた。
出た場所は、岩の上だった。
夜だ。空に星がある。並びが、砦で見たものと違っていた。北へ、だいぶ来ている。
足元は岩だ。手を着くと冷たい。魔界の石とは、冷え方が違った。
正面に、祠があった。
石を4枚、立てて組んである。屋根は無い。その中に、人が1人、座っていた。
座っているのではなかった。膝から下が、岩の中に入っている。
「触らないでおきなさい」
その者は、そう言った。
俺は、伸ばしかけた手を止めた。その声の高さを、聞いたことがあった。
アステリアの声を、20年ぶん低くすると、この声になる。
「セレスティアか」
「そうです」
「あなたが、下から上がってきたということは、9番目の欄が開きましたね」
「開けた」
「……そう」
俺は、その顔を見た。
白い髪だ。長いまま、結わずに垂らしてある。髪は岩の上まで届いて、そこから先が、岩と同じ色をしていた。
膝から下は、岩だ。腰から膝までは、岩と肌の間の色をしている。18年かけて、ここまで来ている。
「ミラを戻したのは、あなたですか」
「あぁ」
「1人ぶん、席が空きましたね。……誰が塞ぎましたか」
「ラントって男だ」
セレスティアは、目を閉じた。瞼の下が、一度だけ動いた。
「……あの子は、3年、動きませんでした」
「いま、喋ったぞ」
「誰かが、数えたからです」
「あんたは、数えなかったのか?」
「数えられません」
彼女は、目を閉じたままだった。
「わたくしは、名を削った者です。名の無い者が数えても、帳は動きません」
腹の底が少し冷えた。
この女は18年、目の前を通る者を1人も数えられずにいる。そのまま、通す側に座っている。
「夜明けに、外れるらしいな」
「聞きましたか」
「2つ目に降りてきた奴が、そう言った」
「……では、あと1刻です」
俺は、空を見て、明るくなる速さを測った。
東の端は、まだ暗い。ただ、下の方だけ、色が抜け始めている。1刻もない。
「外れたら、どうなる?」
「線が切れます」
「切れたら、あんたはどうなる?」
「落ちます」
祠の石の間を、冷たい風が一度抜けた。
「どこへだ?」
「どこへも」
「名の無い者は、白い場所にも入りません。……入る欄が、ありませんので」
俺は、その岩を見た。
膝が入っている。岩は割れるものだ。人間界で、俺は何度も岩を割った。闇で抜く方が、もっと早い。
やってみるまでもなく、無駄なのは分かっていた。
この女は、岩に挟まれているのではない。岩になりかけている。
「あんた、俺を落としたな」
「落としました」
「なんでだ?」
「順が違います」
彼女の目が、開いた。
「先に、あの子のことを訊きなさい。……ここへ、連れてきませんでしたね」
「村に置いてきた」
「立てますか?」
「立てねえ」
「読まれましたね」
「1本、食った」
セレスティアは、そこで、初めて動いた。
右手だ。膝から上は、まだ動く。その右手が、自分の膝の岩の上に置かれた。指の先が、少し震えた。
「……食えるのですね。あなたは」
「1本なら食える。2本は無理だ」
「1本で、十分です」
「何がだ?」
「わたくしを、外すのに」
「押さえの向こう端は、線で留めてあります。使われているのは、光です。……あなたは、光を食う」
俺は、足元を見た。岩の表に、細い線が走っている。祠の石の下から出て、この女の膝へ入っていく線だ。
食える。そうすれば、この女は岩から外れる。
「外したら、線が切れるんじゃねえのか?」
「切れます」
「切れたら、砦の井戸の石が落ちる」
「落ちます。……あなたは、魔界へ戻れなくなります」
セレスティアは、俺の顔を見た。
その目が、アステリアと同じ形をしていた。困ったときに端が下がる。この娘の癖は、この女から来ている。
「ですから、わたくしは、あなたに頼みません」
「頼まねえのか?」
「頼めば、あなたは、する側になります」
彼女の右手は、まだ膝の岩の上にあった。
「する側になった者は、あとで、してやったと思います。……18年前に、わたくしがそうでした」
俺は、そこで黙って、東の空を見た。色の抜けた分が、さっきより広い。




