↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
179/300

第179話 1つだ

「ラント」


俺は、その名を呼んだ。


男の首が、もう少し回った。さっきは横を向いた分だけだったのが、いまは正面まで来ている。



口が、また動いた。今度は、6つだった。


聞こえない。俺は耳を近づけるのをやめて、代わりに、正面へ回って、目の高さを合わせた。



「1つだ」


「あんたで、1つ。ここに202いるが、俺が数えたのは、あんただけだ」



音が、出た。男の喉から出た音だ。掠(かす)れている。3年、使っていない喉の音だ。


「……ひ、と」


「あぁ」


「ひとつ、ですか」


掠れた音が、白い中へ吸われていった。


「1つだ」


「……数えて、いただけましたか」


「数えた」


男は、瞬(まばた)きをした。


白い場所で瞬きをした者を、俺は初めて見た。瞬きのあとに、目が濡れた。濡れた分は落ちなかった。落ちる先が、ここには無い。


「ラント、と」


「あぁ」


「……3年ぶりでございます」


「誰も呼ばねえのか?」


「呼ぶ者が、おりません」


彼は、もう一度、瞬きをした。


「ここにいる者は、皆、自分の名も忘れております。……わたしが覚えているのは、書いたからです」


「名簿か?」


「はい。……18年、書きました。1100と少しでございます」


「自分の名も書いたな」


「書きました。……いちばん下手でございました」



俺は、その言い方に、引っかかった。


ラントは、自分の字の出来を気にした。3年、白い中に立っていた者が、最初に言うのがそれだった。


「なんで下手だった?」


「……手が、震えましたので」



ラントは、足を動かそうとした。


動かない。首から下が、まだこちらへ来ていない。


俺は、その肩に手を置いた。掌の下に、厚みがあった。ここでは、こいつに触れる。名の線で繋がれた者同士だからだ。



「あんた、俺を見てたな」


「はい」


「3年も、こっちを向いて何を見てた?」


「あなたの方から、線が来ておりましたので」


「わたしの名と、あなたの名が、1本で繋がれております。……その先が下におりましたので、下を見ておりました」


「見えたのか?」


「見えません。……向きが分かるだけでございます」


「じゃあ、3年、向きだけ見てたのか」


「はい。……3日前に、その向きが動きました」



俺は、日を数え直した。3日前、俺は井戸から人間界へ出た。この男から見れば、線の先が、いきなり動いたことになる。


「動いて、どう思った?」


「……嬉しゅうございました」



彼は、少し顔を歪めた。


「動いたのが何であるかも、存じません。分からないのに、嬉しゅうございました。……3年、何も動きませんでしたので」



俺は、井戸の縁でリィナが言ったことを思い出した。13日、あの女は板を見ていた。それが下から破れた朝に嬉しくて、嬉しかったのが嫌だった、と言った。


同じことを言う人間が、3日で2人いる。


「ここから出る」


「出られません」


「俺は出られる」


「……はい。あなたは、歩いておられますので」



「あんたを、連れて出る」


ラントは、そこで首を振った。


首は動く。さっき回ったからだ。ただ、振る速さが、生きている人間の速さではなかった。


「連れて出られますのは、1人でございます」


「あんたが、その1人だろうが」


「1人は、もう決まっております」



俺は、その言葉の意味を訊かなかった。


ラントが次に言うことは、分かっていた。名簿を18年書いた者は、誰が何番目かを、先に言う癖がある。


「ミラ、と申します」


「昨日、こちらへ来ました。……村の者でございます。上を向いていた娘でございます」


「あの嫁か?」


「はい。……あの者は、2本目を引かれておりますが、まだ、こちらへ体が来ておりません。半分でございます」


「半分なら、戻せるのか?」


「戻せます。……1人ぶんの席が空きます。空いた席は、いま、わたしが塞いでおります」



俺は、ラントの顔を見た。


顔の作りは、グランに似ていない。父親の方は骨が太い。この倅は細い。外で働かずに、字を書く方へ回された体だ。


「席を空けりゃ、あんたが出られるだろうが」


「空けますと、あの者が来ます」


「あんたが出て、あの娘が来るのか?」


ラントが、うなずいた。


「じゃあ、あんたが出ろ」


「出ません」



言い方に、迷いが無かった。3年、同じことを考え続けた者の言い方だった。


「わたしは、3年、ここで数えております。……202人おります。誰がいつ来たかを、覚えております。わたしが出ますと、覚えている者が、いなくなります」



「覚えて、どうする?」


「いつか、誰かが数えに参ります」


ラントの首が、立っている者たちの方へ少し回った。


「そのときに、202人の順を言える者が要ります。……順が分かりませんと、上は、また帳尻で埋めます」



「あんた、親父を恨んでねえのか?」


「恨んでおりません」


「なんでだ?」


「父は、名簿を読めませんので。……わたしの書いた名を、数だけ聞いておりました」


「じゃあ、あんたが出したのか?」


「わたしが、出しました」


声が、そこで初めて、揺れた。


「7人目のときに、書く名が、無くなりました。……その年、村に、若い者が7人おりませんでした」



俺は、それ以上訊かなかった。



「ミラを戻す」


ラントの首が、ゆっくり縦に動いた。


「あんたは、ここに残る」


「はい」


「俺は、いつか、また来る」


「……お待ちしております」



ラントは、少し笑った。


笑い方が、父親と同じだった。グランは笑うときに、火傷の無い方の頬だけを動かす。この倅も、右の頬だけを動かした。


「お願いが、1つございます」


「あぁ」



「父の石積みを、見てきてくださいませ」


彼は、そう言った。


「砦(とりで)の裏に、崩れた壁がございます。父は、18年、あれを積み直しております。……1段目を、斜めに寝かせておりますか」



「寝かせてた」


「……では、覚えておりました」


「誰に教わったか、あいつは言ってたか?」


「申しません。……ただ、あそこを積むときだけ、父は、鼻歌(はなうた)を歌います」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。