第179話 1つだ
「ラント」
俺は、その名を呼んだ。
男の首が、もう少し回った。さっきは横を向いた分だけだったのが、いまは正面まで来ている。
口が、また動いた。今度は、6つだった。
聞こえない。俺は耳を近づけるのをやめて、代わりに、正面へ回って、目の高さを合わせた。
「1つだ」
「あんたで、1つ。ここに202いるが、俺が数えたのは、あんただけだ」
音が、出た。男の喉から出た音だ。掠れている。3年、使っていない喉の音だ。
「……ひ、と」
「あぁ」
「ひとつ、ですか」
掠れた音が、白い中へ吸われていった。
「1つだ」
「……数えて、いただけましたか」
「数えた」
男は、瞬きをした。
白い場所で瞬きをした者を、俺は初めて見た。瞬きのあとに、目が濡れた。濡れた分は落ちなかった。落ちる先が、ここには無い。
「ラント、と」
「あぁ」
「……3年ぶりでございます」
「誰も呼ばねえのか?」
「呼ぶ者が、おりません」
彼は、もう一度、瞬きをした。
「ここにいる者は、皆、自分の名も忘れております。……わたしが覚えているのは、書いたからです」
「名簿か?」
「はい。……18年、書きました。1100と少しでございます」
「自分の名も書いたな」
「書きました。……いちばん下手でございました」
俺は、その言い方に、引っかかった。
ラントは、自分の字の出来を気にした。3年、白い中に立っていた者が、最初に言うのがそれだった。
「なんで下手だった?」
「……手が、震えましたので」
ラントは、足を動かそうとした。
動かない。首から下が、まだこちらへ来ていない。
俺は、その肩に手を置いた。掌の下に、厚みがあった。ここでは、こいつに触れる。名の線で繋がれた者同士だからだ。
「あんた、俺を見てたな」
「はい」
「3年も、こっちを向いて何を見てた?」
「あなたの方から、線が来ておりましたので」
「わたしの名と、あなたの名が、1本で繋がれております。……その先が下におりましたので、下を見ておりました」
「見えたのか?」
「見えません。……向きが分かるだけでございます」
「じゃあ、3年、向きだけ見てたのか」
「はい。……3日前に、その向きが動きました」
俺は、日を数え直した。3日前、俺は井戸から人間界へ出た。この男から見れば、線の先が、いきなり動いたことになる。
「動いて、どう思った?」
「……嬉しゅうございました」
彼は、少し顔を歪めた。
「動いたのが何であるかも、存じません。分からないのに、嬉しゅうございました。……3年、何も動きませんでしたので」
俺は、井戸の縁でリィナが言ったことを思い出した。13日、あの女は板を見ていた。それが下から破れた朝に嬉しくて、嬉しかったのが嫌だった、と言った。
同じことを言う人間が、3日で2人いる。
「ここから出る」
「出られません」
「俺は出られる」
「……はい。あなたは、歩いておられますので」
「あんたを、連れて出る」
ラントは、そこで首を振った。
首は動く。さっき回ったからだ。ただ、振る速さが、生きている人間の速さではなかった。
「連れて出られますのは、1人でございます」
「あんたが、その1人だろうが」
「1人は、もう決まっております」
俺は、その言葉の意味を訊かなかった。
ラントが次に言うことは、分かっていた。名簿を18年書いた者は、誰が何番目かを、先に言う癖がある。
「ミラ、と申します」
「昨日、こちらへ来ました。……村の者でございます。上を向いていた娘でございます」
「あの嫁か?」
「はい。……あの者は、2本目を引かれておりますが、まだ、こちらへ体が来ておりません。半分でございます」
「半分なら、戻せるのか?」
「戻せます。……1人ぶんの席が空きます。空いた席は、いま、わたしが塞いでおります」
俺は、ラントの顔を見た。
顔の作りは、グランに似ていない。父親の方は骨が太い。この倅は細い。外で働かずに、字を書く方へ回された体だ。
「席を空けりゃ、あんたが出られるだろうが」
「空けますと、あの者が来ます」
「あんたが出て、あの娘が来るのか?」
ラントが、うなずいた。
「じゃあ、あんたが出ろ」
「出ません」
言い方に、迷いが無かった。3年、同じことを考え続けた者の言い方だった。
「わたしは、3年、ここで数えております。……202人おります。誰がいつ来たかを、覚えております。わたしが出ますと、覚えている者が、いなくなります」
「覚えて、どうする?」
「いつか、誰かが数えに参ります」
ラントの首が、立っている者たちの方へ少し回った。
「そのときに、202人の順を言える者が要ります。……順が分かりませんと、上は、また帳尻で埋めます」
「あんた、親父を恨んでねえのか?」
「恨んでおりません」
「なんでだ?」
「父は、名簿を読めませんので。……わたしの書いた名を、数だけ聞いておりました」
「じゃあ、あんたが出したのか?」
「わたしが、出しました」
声が、そこで初めて、揺れた。
「7人目のときに、書く名が、無くなりました。……その年、村に、若い者が7人おりませんでした」
俺は、それ以上訊かなかった。
「ミラを戻す」
ラントの首が、ゆっくり縦に動いた。
「あんたは、ここに残る」
「はい」
「俺は、いつか、また来る」
「……お待ちしております」
ラントは、少し笑った。
笑い方が、父親と同じだった。グランは笑うときに、火傷の無い方の頬だけを動かす。この倅も、右の頬だけを動かした。
「お願いが、1つございます」
「あぁ」
「父の石積みを、見てきてくださいませ」
彼は、そう言った。
「砦の裏に、崩れた壁がございます。父は、18年、あれを積み直しております。……1段目を、斜めに寝かせておりますか」
「寝かせてた」
「……では、覚えておりました」
「誰に教わったか、あいつは言ってたか?」
「申しません。……ただ、あそこを積むときだけ、父は、鼻歌を歌います」




