第178話 かぞえて
残った線は、3尺の上から続いていた。
食ったのは下の端だけだ。上は、峠の空まで繋がっている。その先は、天界の階段になっている。
俺は、その切り口を見上げた。光が少し、揺れていた。
「ゼノ」
アステリアが、名を呼んだ。
まだ立てていない。地面に座ったまま、こちらを見ている。翼の片方は、畳めずに開いたままだった。
「昇らないでください」
「昇らねえ」
「では、何を——」
「間を通る」
彼女は、そこで黙って、少し口を開けた。この娘が驚くときは、目ではなく口が動く。18年前も、同じところが動いた。
「……白い場所を、歩くのですか」
「歩ける」
「歩けません。あそこに入った者は、向きも変えられません」
「入って、動いた奴を、あんたは知ってる」
アステリアは、答えずに、自分の膝の上で、指を1本ずつ折った。それから、こう言った。
「……ラント、という名でしたか」
「知らねえ。まだ名で呼んだことがねえ」
2つ目の使いは、村の外れに立っていた。
上がれなくなったので、そこにいる。座らず、歩かず、1尺の高さに浮いたまま、東を向いていた。
俺がその横を通るときに、そいつが口を開いた。
「間を通っても、峠には出ません」
「なんでだ?」
「あそこには、距離がありません」
そいつは、そう答えた。
「距離の代わりに、数があります。……出る場所を決めるのは、あなたが数えられている欄です」
「俺は、数に入ってねえ」
「ですから、出ません」
「入らねえと、どこにも出られねえのか?」
「はい。……入って、なお歩ける者だけが、選んで出られます」
俺は足を止めて、村の広場を見た。8人が円の中に立っている。円の外に、あの50がらみの男が座っている。男は、夜のあいだ一度も動かなかった。
数に入る。入って、それから、歩く。
「アステリア」
「はい」
「9番目の欄に、俺の名がある」
「……はい」
「あの欄は、閉じてるのか?」
「閉じています。……名を削った座は、外から開きません」
「中からは、どうだ?」
彼女は、そこで顔を上げて、俺を見た。目の端が、下がった。この娘は、困ったときと、先に答えが分かってしまったときに、同じ顔をする。
「……開きます。座に名のある者が、自分で開けます」
俺は、自分の胸に手を当てた。
18年前、ここから名を剥がされた。その跡は、いまも傷として残っている。人間界で治癒の階梯をいちばん上まで登ったが、この傷だけは閉じなかった。
まだ、向こうに繋がっている。
「入ると、どうなる?」
「読まれます」
アステリアの目が、俺の胸の手に止まった。
「9番目の欄が開けば、上は、そこを読みます。読まれた者は、白い場所に立ちます。……歩けなくなります」
「ヴァルゼードは、もう読めねえだろ?」
「その名は、読めません。……ですが、いまのあなたの名が、そこへ書かれます」
腹の底が動いた。今日に入って、初めてだった。
ヴァルゼードを取られたときは、何も思わなかった。剥がされた瞬間に、器ごと落ちていたからだ。
いまは、違う。
「ゼノが、帳に載るのか?」
「載ります」
「載ったら、俺はどうなる?」
「正されます。……いつかは、分かりません。上は、欄が埋まった順に手を付けます」
俺は、広場の方を見た。
8人が立っている。村の者は、夜のうちに荷を作って、南へ下りた。下りる前に、22人が広場の前を1人ずつ通って、8人の顔を見ていった。
それだけだ。誰も、名を呼ばなかった。呼ぶと、置いていけなくなるからだ。
「ヴィント」
ヴィントが、掌の火を消して寄ってきた。
「あんたは、ここに残れ」
「……僕が、ですか」
「あの8人と、あの親父を見てろ。それから、リィナが来たら止めろ」
「止まりますか、あの方?」
「止まらねえ」
「では、どうすればよろしいですか?」
「止まらねえのを、見てろ」
ヴィントは、その言い方に、少し笑って、自分の掌に火を灯した。火は、揺れなかった。夜明け前は揺れていた。名を一度読まれ、その名を書いた本を俺が食ってから、火の出し方が変わっている。
俺は、村の外れへ戻って、線の切り口の下に立った。3尺の空白がある。その上から、光が続いている。
胸の傷に手を当てて、闇を1枚、傷の上に置いた。
闇は、内側へ入って、何かに触れた。その瞬間に、手首から肘まで痺れが走った。
18年ぶりだ。
傷が、開いた。
そこから、光が出た。俺の中から出た光だ。人間界で使ってきた光とは、出どころが違う。
光が、上へ伸びて、3尺の空白を埋めた。
切れていた線が繋がった。線は下へ降りてきて、俺の足元で止まった。
段が、1つ現れた。
後ろで、アステリアが何か言った。
聞こえなかった。白い方へ、体が傾いた。
俺は、段に足を載せた。村が消えた。
白い。上も下も白い。足の下に、地面の感触が無い。それでも歩ける。俺の名が、まだそこに書かれていない。
正面に、人が立っていた。
数えて、200はいる。3日前に通ったときより、増えている。
全員、別々の方を向いている。年寄りも、子供もいる。着ているものが、全部違った。魔界の織り方が、その中に混じっている。
俺は、その間を歩きながら、顔を見た。誰も、俺を見ない。
20人ほど過ぎたところで、1人だけ、首が動いた。
若い男だ。30を少し出たくらい。背は俺より低い。髪が短く、前髪だけが目にかかるほど伸びている。
その男は、こちらを向いていた。
俺は、その前に立って、男の右手を見た。指の付け根に、胼胝がある。筆の胼胝だ。字の読めない父親の代わりに、18年、名簿を書いた手だった。
男の口が、動いた。
音は無い。3つだ。昨日の男が地面に引いた線と、同じ3つ。
俺は、もう1歩前に出て、耳を、その口の高さまで下げた。
「……か」
「……ぞ」
「……え、て」




