第177話 上の帳に、その2文字はございません
2つ目は、本を持っていなかった。
降りてきて、地面の1尺上で止まった。足を着けないまま、円の方へ寄ってきた。背は高く、肩幅も俺と変わらない。白いのは、1つ目と同じだ。
俺は、その顔を見た。顔に、皺が1本もなかった。
「1つ、無くなりました」
「先に降りた者の帳が、こちらへ戻りません。……あなたが、食いましたか」
「食った」
「では、あの者の分は、わたしが覚えます」
「本は?」
「持ちません」
そいつは、空の両手を開いて見せた。
「わたしは、口で覚えます。……忘れるということが、ありませんので」
俺は、掌を開いた。皮は、昨日から剥けたままだ。指が3本、まだ思った通りに曲がらない。闇は組めるが、細かい形にならない。
膜は、作れない。
「8つ、いただきます」
「待て」
「待ちません。……道は、均し終わりました」
そいつが、円の方へ手を伸ばした。
その手が、円の縁で止まった。昨日、蹄鉄で引いた線のところだった。
そいつは、その線を見て、少し、顔を傾けた。
「これは、誰が引きましたか」
「俺だ」
「何のためですか」
「囲うためだ」
「囲うと、どうなると思いましたか」
俺は、答えなかった。
何も思っていなかった。線を引く道具が蹄鉄しか無かった。囲えば何かになると思っただけで、意味は知らない。
そいつは、俺の顔を見て、こう言った。
「……意味は、ありません。ただ、線の内と外で、数え方が変わります」
「変わると、どうなる?」
「中の8つは、この村の8つではなくなります」
「村ごと持っていく取り決めでしたので、この8つは、外れます。……外れたものは、あとで別に取りに参ります」
俺は、初めて、円を引いてよかったと思った。顔には出さなかった。出すと、この手の連中は、次から線を数える。
「なら、帰れ」
「帰りません。……2つ目の用があります」
そいつは、俺の正面に来た。
地面の1尺上で止まったまま、俺の顔の高さに合わせて、口を開いた。
「9番目の欄の名を、読みます」
後ろで、アステリアが動いた。さっき線を食ったばかりで、まだ膝が立たない。地面に手をついて、こちらへ躰を向けた。
「やめてください」
「あなたには、訊いていません」
「その欄は、母が——」
「セレスティアの話は、3番目の用です」
そいつが、息を吸った。
吸う必要が無い者が、息を吸った。読むための形だ。
「ヴァルゼード」
名が、空気を通って、俺の胸のあたりで止まった。そこで、何も起きなかった。
俺は、自分の首の後ろに手を当てた。線は、無い。
そいつは、俺を見ていた。それから、もう一度言った。
「ヴァルゼード」
同じだ。何も起きない。
「……おかしい」
初めて、そいつの言葉が短くなった。
「欄には、載っています。読めば、必ず——。……首に、何も」
「18年前に、一度読んだんだろ。あんたらの帳で、その名は、そのとき1回、消えてる。消えた名を、もう一度消せるのか?」
そいつは、自分の掌を見た。天界の者が、自分の手を見るのは、これで3人目だ。
やがて、顔を上げた。
「では、いまのあなたの名を、仰ってください」
俺は、剥けた掌を一度握った。指が3本、途中で止まった。
18年前、俺はこの名を捨てたのではない。剥がされた。その先で、名の無い躰のまま這って、最初に名乗ったのは、北の穴を出た坂の下だった。あのとき口から出た音を、俺は18年、使っている。
「ゼノだ」
そいつは、動かなくなった。人が考えるときの間ではない。探している間だ。
無かったらしい。無いという顔を、この連中もするのだと知った。
「……ありません」
「どこにも無えのか?」
「上の帳に、その2文字はございません。一度も、書かれておりません」
「なら、俺は何だ?」
「分かりません」
そいつは、そう答えた。
「分からないものを、正す役目の者は、扱えません。……上へ、持ち帰ります」
そいつが、後ろへ下がって、降りてきた線の方へ向いた。
その瞬間、俺は地面を蹴った。5歩で追いついた。
触れない。分かっている。触れないが、こいつの通り道には、触れる。
俺は、闇を4枚組んで、そいつの足元ではなく、降りてきた線の、下の端に叩きつけた。
4枚が、光の線に食いついた。この線は光だ。食える。下から3尺ぶん、消した。
そいつは、途中で止まって、俺を見下ろした。その顔に、やはり皺が無い。
「……上がれません」
「そうだな」
「上がれないと、わたしは、どこへも属しません」
「知ってる」
俺は、闇をもう4枚組んだ。
そこで、手が止まった。肩から先が、上がらなくなっていた。
昨日、22人ぶん食っている。今朝、本を6枚ぶん食っている。いま、線を3尺食った。
そいつは、俺の腕が下がったのを見て、下りてきた。地面の1尺上まで来て、俺の正面で止まった。
「3番目の用を、申します」
「言う相手が違うんじゃねえのか?」
「いいえ。……あなたにです」
そいつは、俺の後ろを指した。
その先に、アステリアがいた。地面に手をついたまま、こちらを見ている。
「セレスティアは、明日の夜明けに、押さえから外れます」
「外れると、どうなる?」
「向こう端が消えますので、線が切れます」
そいつは、指を下ろした。
「切れた線は、両端ごと帳から落ちます。……こちら側の端は、あの砦の井戸の石です」
俺は、言われたことを、頭の中でたどり直した。何度やっても、答えは1つしか出なかった。
井戸の石は、俺の基準点だ。18年前に落ちた場所で、俺の座標が焼きついている。あれが落ちれば、俺は魔界へ戻る道を失う。ルシェの足の向こう側も、同じだ。
「明日の夜明けか?」
「はい。……間に合いません」
峠まで、あと2日ある。




