第176話 9番目の欄
降りてきたのは、夜明け前だった。
鐘は無い。この村に鐘は無い。代わりに、北の空の2本目が、上の端から順に明るくなった。その速さが、人の歩く速さと同じだった。
段を踏んでいる。
俺は、円の外に立った。
円の中に8人。円の横に、50がらみの男が座っている。男は、蓑を1枚被っていた。夜露を凌ぐために、自分で被ったものだ。
「動くな」
「はい」
ヴィントは、20歩下がったところで、火魔法を掌に灯していた。
火は、震えていた。この男の火は、いつも最初だけ揺れる。それでも、消さずに持っている。
アステリアは、俺の左に立った。
翼は、畳んだままだった。
降りてきた者は、白かった。外套ではない。肌が白い。人の形はしている。背は俺より低く、肩が薄い。武器は、何も持っていない。
右手に、本を1冊、持っていた。
本は、紙ではなかった。
頁が光っている。捲るたびに、下の頁が透けて見えた。その向こうに、字が並んでいる。細い字だ。線の終わりを止めずに抜いてある。
天界の字だった。
「——2つ」
声が、低くも高くもない。喉を使っていない者の声だった。
「2つ、動きました。1つは、こちらの者。1つは、数に無い者。……先に、こちらの者から正します」
そいつが、頁を捲って、指を1行に置いた。それから、口を開いた。
「アステリア・ネイア」
俺の左で、音がした。翼が落ちる音だ。畳んでいた翼が、根元から力を失って、地面に垂れた。羽の先が、砂を擦った。
アステリアは、立ったまま、動かなくなった。
「アステリア」
返事が無い。目は開いている。その目が、俺を映していない。昨日の31人と同じ顔だ。
首の後ろを見た。線が、1本、引かれていた。
俺は、闇を4枚重ねて、白いやつに放った。
闇幕は、光を食う。人間界で、俺はこれで軍を止めた。天界の兵も、これで食った。
4枚は、そいつの手前で止まった。
止まったのではない。読まれた。
そいつは、俺の闇を見て、頁を1枚捲って、その先に指を置いた。
「……これは、闇です。帳に、闇の欄はありません」
闇幕が、そのまま宙に浮いていた。
食う相手がいない。こいつは、光でできていない。光で書かれている。書かれたものは、食えない。
俺は、4枚を解いて、走った。5歩で間合いに入った。
掌をそいつの喉に当てた。掌の下に、何も無かった。形はある。厚みが、無い。
「触れません」
そいつは、そう言った。
「わたしは、正す者の使いです。この役目の者は、下の物に触れません。……触れますと、数が動きます」
「触れねえのに、どうやって連れていく?」
「読みます」
そいつが、また頁を捲って、次の行に指を置いた。
「ヴィント・ダリオン」
20歩後ろで、火が消えた。湿った音だった。倒れた音はしない。ヴィントは、掌を前に出した姿勢のまま、止まった。
俺は足を止めて、そいつの持っている本を見た。本は、光で書かれている。頁も、字も、光だ。
食えるのは、光だ。
俺は、闇を1枚だけ組んで、薄く延ばした。4枚重ねると、幕になる。1枚を延ばすと、膜になる。膜は、押せない。ただし、触れたものを舐める。
その1枚を、本の上へ落とした。
膜は、頁に触れて、貼りついた。そこから字が滲み、下の頁へ落ちて、下の字と混ざった。行が1本、崩れた。
そいつが、初めて、手を動かした。
そいつは、本を閉じようとした。閉じる前に、俺は2枚目を落とした。3枚目を落とした。4枚目で、頁の端が黒くなった。
「……やめなさい」
初めて、声に高さが出た。
「読んだ名は、戻るか?」
「戻りません」
「じゃあ、読ませねえようにする」
5枚目を落とした。
膜が、頁の真ん中に貼りついて、そこがゆっくり黒くなっていった。線を食うときより、遅い。書かれたものは、消すのに時間がかかる。
そいつは、本を胸に抱えて、こう言った。
「これを失うと、わたしは、何を正すのかが分かりません」
「分からなくなったら、どうする?」
「立ちます」
「どこに」
「ここにです」
俺は、6枚目を落として、本の最後の頁が黒くなるのを見た。黒くなりきったところで、そいつの手から、本が落ちた。
本は、地面に着く前に消えた。
そいつは、自分の手を見た。
それから、円の中の8人を見た。8人を数えてから、俺の方を見た。
「……あなたは、誰でしたか」
「忘れたのか」
「読めないものは、覚えられません」
俺は、そいつの後ろへ回って、首の後ろを見た。縦に3本。天界で作られた者の印だ。
闇を1枚、置いた。
1本目が消えた。2本目が消えた。3本目に触れたところで、そいつが口を開いた。
「——ヴァルゼード」
俺は、手を止めた。
俺の、18年前の名だ。この村の誰も知らない。ヴィントも知らない。
「本は、食っただろうが」
「頁の1枚目だけは、読まずに覚えます。……そこは、9番目の欄です」
「9番目に、何が書いてある?」
「名が、1つ」
「誰の名だ?」
「あなたのです」
俺は、3本目を食った。
そいつは端から白くなって、消えた。消える前に、両手が動いて、上を指した。
その先に、2本目の線がある。
その線を、いま、2つ目が降りてきていた。
俺は、アステリアの首の後ろに闇を置いた。
1本だけだ。食った途端に、アステリアの膝が抜けた。その体を左腕で受けて、ヴィントの方を見た。
あの男は、まだ立っていた。




