第174話 字を書く者の手でございました
俺は、その麦を担いでいた男の首の後ろを見た。
見るために、男の頭を前へ倒した。髪の生え際の下に、線が1本あった。指で押しても、動かない。
縦だ。爪で掻いた傷に似ているが、傷ではない。皮膚の上には何も無くて、その下に、線が1本引いてある。
一昨日の朝、砦の中庭で、俺は同じものを見ている。あのときは、3本並んでいた。
天界の兵の首の後ろには、これが3本あった。3本を食ったら、端から白くなって消えた。
この男には、1本しかない。
「アステリア」
アステリアが、俺の横に膝をついた。
「3本で、あっちの兵だな」
「はい」
「1本は、何だ?」
「……印です。数え終わったときに、2本目が引かれます」
「3本目は」
「引かれません」
彼女は、男の首から目を離さずにいた。
「3本目を引かれるのは、上で作られた者だけです。……下の者は、2本で終わります」
「終わると、どうなる?」
「持っていかれます」
俺は、その男の首に、指を1本当てた。
指の下が、冷たかった。人の肌の冷たさではない。一昨日の朝、井戸の底で1枚石に触れたときと、同じ冷え方だった。
闇を1枚組んで、指の先に載せ、そのまま線の上へ置いた。
途端に、闇が動いた。食っている。俺の闇は光を食う。この線は、光でできている。
線が、下から上へ短くなって、消えた。
同時に、男の膝が抜けた。
俺は腕を出して、その体を受けた。全体重が一度に来た。50がらみの、麦を担いで生きてきた男の重さだった。
「ヴィント」
「は、はいっ」
「水を出せ」
「あ、……はい。あります」
男は、俺の腕の中で息を吸って、咳をした。
それから、目が動いた。俺を映して、俺の後ろへ抜けた。その先を見た顔が、固まった。
俺は振り返った。
30人が、まだ立っていた。
「……ミラ」
男は、そう言った。
「ミラ。……起きろ」
俺は、その名の者を探した。探すまでもなかった。上を向いている若い女だ。麻の紐で髪を束ねた、20そこそこの女。
「あんたの娘か」
「嫁でございます。……倅の、嫁で」
「倅は、どこだ?」
「そこに」
男が指したのは、女の左にいる若い男だった。
背が高い。肩が張っている。石を積む普請の腕だ。右の肩だけが、少し前に出ている。
俺は、その倅の首の後ろを見た。
線が、2本あった。
「アステリア」
「……2本です」
「間に合うか」
「分かりません」
彼女は、2本の線を見ていた。
「2本引かれた者を、わたしは、戻したことがありません」
俺は、闇を1枚組み直して、倅の首に置いた。闇は1本目を食って、2本目に触れた。
その瞬間、弾かれた。
俺の指の上で潰れた闇に、手の甲の皮を1枚、持っていかれた。その下から、血ではないものが出た。
「2本目は、こっちのもんじゃねえな」
「はい。……2本目は、上で引かれます」
「上の線を食うには、上へ行くしかねえのか」
「行っても、食えません。引いた者の手の中にありますので」
俺は、闇魔法の陣を5枚重ねて、押した。
闇は2本目の線に当たって、止まった。そのまま、動かない。手応えが、ルシェの足の円を押したときと同じだった。
天級では、届かない。
「陛下」
後ろで、男が言った。
この村の男は、俺を知らない。知らないのに、そう呼んだ。
振り返ると、男は、地面に膝をついていた。
「……いま、白いところにおりました」
男は、膝をついたまま、息を継いだ。
「立っておりました。動けません。向きも変えられません。……ですが、見えます」
「何が見えた?」
「人が、大勢おりました」
俺は膝を折って、この男の目の高さに合わせた。何も訊かずに、続きを待った。
男は、自分の手を見ていた。それから、口を開いた。
「わたくしの前に、若い男が立っておりました。……こちらを向いておりました」
「向いてたのか」
「はい。……あそこで、こちらを向いていたのは、その者だけでございます」
「喋ったか」
「口が動きました。声は、ございません」
「何て言った?」
「読めませんでした」
男は、指で、地面に線を引いた。線は、3本になった。
「……こう、3つでございます。3つ、口が動きました」
俺は、その3本の線を見て、一昨日の朝を思い出した。俺が白い場所を通ったときにも、1人だけ首を回して、口を3度動かした。
同じ者だ。
「その男は、どんな身体だった?」
「若うございます。30を少し出たくらいで」
「背は」
「わたくしの倅より、低うございます。……ただ、手が」
男は、自分の右手を上げて、指の付け根を左手で押さえた。
「ここに、胼胝がございました。筆の胼胝でございます。……字を書く者の手でございました」
俺は、立ち上がった。膝が一度鳴った。その音が、自分の耳に遠かった。
18年、名簿を書いていた男がいる。字の読めない父親の代わりに、毎年、誰を出すかを紙に書いていた男だ。3年前に、自分の名を、自分で書いた。
「アステリア」
「はい」
「白い場所の連中は、動けねえんだな」
「動けません」
「じゃあ、あいつは、なんで首を回した?」
彼女は、そこで黙って、上を見た。その先に、光の線がある。北へ折れて、この村の真上を通っている、細い1本だ。
「……回せる者が、1人だけいます」
「誰だ」
「帳に、名が2つある者です」
「2つ?」
「出された者の名と、出した者の名です」
彼女は、光の線から目を下ろした。
「同じ手で書かれた場合に、限ります。……上では、それを1本の線で繋ぎます。繋がれた者は、繋がれた分だけ、動けます」
俺は、北の砦の天幕で見た紙を思い出した。3行目に、俺の名と、もう1つの名が、1本の線で繋がれていた。
「その線の片っぽが俺なら、あいつは俺を見られるのか」
「見られます」
「俺からは」
「見えません。……あなたは、名が載っていませんので」
俺は、上を向いている女の横を通り、まだ立っている30人の間を歩きながら、1人ずつ首の後ろを見た。
1本が、22人。2本が、8人。
グランの倅は、あの白い場所から、3年、こっちを見ていた。




