第173話 道の上を、均しています
夜明け前に、井戸がもう一度鳴った。
俺は中庭で待っていた。8つ目が、まだ来ていない。来ないまま夜が明けたら、向こうで何かが終わっている。
鳴ったのは、鐘が5つ目を打ったあとだった。
8つ。9つ。10。11。
続きから返ってきた。
それから、向こうが1つ余計に打った。ルシェだ。この女は、一晩かけて、途中から数え直した。
俺は、石を置いて、井戸の底を見た。暗い中で、弧の端が昨日より内側へ寄っている。指1本ぶんだ。
18年で削れた量と、昨日1日で削れた量が、同じ幅だった。
出立は、朝の鐘が7つ目を打つ前だった。
馬は3頭。4頭目には、荷を載せた。パンと、水と、炭と、鍛冶の直した蹄鉄が2つ。積んだのはグレイグだ。この男は、積んでから縄を3度引いた。
「峠の手前に、杣道がある」
「地図に無えのか?」
「無い。……20年前に、こちらから閉じた」
門の外に、エリシアが立っていた。
外套を着ていない。夜明け前の砦は冷える。そこに、この女は、部屋着の上に肩掛けを1枚だけ羽織って立っていた。
手に、紙を1枚持っている。
「これを」
「何だ?」
「石工の名簿でございます。……11人の、名前でございます」
俺は、その紙を受け取って、開いた。
11人の名が、縦に並んでいた。その下に、6人分の空きがある。空きの上に、細い線が引いてあった。
「この線は」
「昨夜、書きました」
エリシアの目は、その線の上にあった。
「名を、書けませんでしたので。……名を存じませんので、線だけ引きました」
俺は、その紙を畳んで、懐に入れてから、この女の顔を見た。目の下が、昨日より濃い。昨夜は寝ていない。
「エリシア」
エリシアが、肩掛けの前を押さえた。
「石工は、何人来る」
「11人でございます」
「増やせ」
「……増やします」
馬に乗った。
そこへ、リィナが来た。両手の布が、新しくなっている。巻き方が、真っ直ぐだった。誰かに巻いてもらった巻き方だ。
「ゼノ様」
「あぁ」
「6日で追いつきます」
俺は、エリシアの方を見た。この女は、リィナを見ずに、門の柱の方を向いていた。その顔が、少し、笑うのを我慢している形だった。
昨夜、布を巻いたのは、この女だ。
「4日で着く」
「では、2日遅れて着きます」
「歩くのか?」
「歩きます。……走れますので、5日かもしれません」
俺は、手綱を握って、何も言わずに門を出た。
言えば、この女は走る速さを上げる。
1日目は、街道を北へ進んだ。
焼けた畑が続いた。3か月前の戦で焼けて、今年は蒔いていない。その畑の端に、人が2人いた。焼けた土を、鍬で起こしている。
起こした土の下は、まだ黒かった。
ヴィントは、馬の上で、ずっと紙を広げていた。
その紙が、風で2度落ちた。2度とも、自分で降りて拾った。3度目に落ちたときは、落ちる前に俺が掴んだ。
「あ、……ありがとうございます」
「読めてるのか?」
「はい。……この測量図は、父が、25年前に描かせたものです」
「あんたの親父は、この峠を何に使った?」
「軍の道です」
彼は、紙の上の1本を指で押さえた。
「ヴァリスから聖国へ抜ける、いちばん短い道でした。父は、これを閉じました。閉じたあとに、地図から消させました」
「閉じた理由は、書いてあるのか?」
「書いてありません。……ですが、閉じた年に、聖国から使者が来ています」
俺は、20年前という数を、頭の中で並べ直した。石の谷から人が消えたのが20年前の秋。マルクが写しを3枚売ったのが20年前。この峠が閉じたのも、同じ年だ。
閉じたのではない。誰も通らないように、空けておいたのだ。
「アステリア」
アステリアが、手綱を引いて、馬を横に並べた。
「あんたの母親が下へ降りたのは、18年前だな」
「はい」
「その2年前に、この峠が閉じてる」
彼女は、馬の上で、少し考えてから、こう答えた。
「母は、19年前に、一度、下を見ています。……わたしは、その日のことを覚えています。母が戻ってきて、外套の裾に、泥を付けていました」
「天界の連中は、泥を付けるのか?」
「付けません。……足が地面に触れませんので」
「じゃあ、あの泥は何だ?」
「膝をついたときの泥です」
アステリアは、前を向いた。その横顔の、目の端が下がっていた。
2日目の夕方に、村に着いた。
街道から少し外れた、20軒ほどの村だ。3か月前の戦の通り道から外れていたので、家は焼けていない。
家は焼けていないのに、煙が1本も上がっていなかった。
俺は、馬を降りて、手綱をヴィントに渡した。
先に歩きながら、匂いを嗅いだ。
竈の匂いが無い。獣の匂いも無い。人の匂いだけが、残っている。
村の広場に、人がいた。
数えて、31人だ。立っている。座っている者はいない。子供も、年寄りも、立っている。
全員、別々の方を向いていた。
俺は、いちばん近い男の前に立った。
50がらみの男だ。前腕が両方硬い。麦を担いできた腕だ。目は開いているのに、俺を映していない。
肩を掴んで揺すっても、首の据わりが変わらなかった。
「アステリア」
「……はい」
「白い場所にいた連中と、同じか」
「同じです」
アステリアは、声を震わせて、こう続けた。
「ですが、あちらは、上の帳から外された者です。……この者たちは、まだ、こちらにいます」
「生きてるのか?」
「生きています。……数えられている途中です」
「途中だと、どうなる?」
「終わると、いなくなります」
ヴィントが、馬を繋いで、走ってきた。
広場の手前で止まって、口を押さえた。その手の下で、喉が動いた。
「これ、は」
「触るな」
ヴィントは、口を押さえたまま、1歩下がった。
俺は、31人を、もう一度見て、向いている方を数えた。
全員、別々の方を向いている。別々に見えて、そうではない。1人だけ、他の30人の正面に立っていた。
その1人は、上を向いていた。
上を向いた者は、若い女だった。
20そこそこだ。髪を後ろで1つに束ねている。その紐が、麻だった。
俺は、その女の前に立って、上を見た。
その先に、光の線があった。一昨日の夜、砦の井戸から上がって、北へ折れたやつだ。それが、この村の真上を通っている。
「アステリア。これは、道か」
「道です」
「7人は、もう降りたのか?」
「……いいえ」
彼女は、そう答えた。
「降りる前に、道の上を、均しています」




