第172話 わたしは、離れたくないだけです
峠まで4日だと、グレイグが言った。
「荷を担がなければ3日だ。ただし、その足で歩けば、着いた日に使い物にならん」
「4日で行く」
「馬は、4頭しかおらん」
「歩く奴は、何日で着く?」
「6日だ」
砦の馬は、3か月前に82頭いた。
いまは4頭だ。焼けた日に厩が落ちて、残ったのが6頭。そのうち2頭は、冬の前に売った。その金で、鍛冶の炭を買っている。
売った話をするとき、グレイグは俺の顔を見ずに、指で卓の木目を1本、端まで辿った。
「ゼノ様。先に、順番を決めていただけますか」
エリシアが、そう言った。
彼女は、卓の上に紙を広げていた。名が書いてある。その字が、いつもより大きい。手が震えている者は、字を大きく書く。
「何の順番だ?」
「行く者と、残る者でございます」
「あんたは、残れ」
エリシアは、紙から目を上げずに、うなずいた。
「石工の話が済んでねえ」
「済ませます。……ですが、1つだけ、申し上げてもよろしいですか」
彼女は、紙から手を離して、膝の上で組んだ。
指が白くなるまで、この女は自分で自分の手を握っている。
「わたくしは、残ることに、異存はございません。……ただ、決め方が」
「何が悪い?」
「順番を、ゼノ様が決めておられます」
リィナが、そこで口を挟んだ。
「当たり前です」
「リィナ」
「ゼノ様が決めなければ、誰が決めるのですか」
「決まったことは、わたくしたちが持って帰ります」
エリシアは、膝の上の手を組み直した。
「持って帰った先で、その順番の理由を訊かれるのは、わたくしたちでございます。……ゼノ様は、そこにおられません」
俺は、ひと月前のことを思い出した。この女は、砦の兵の前でも同じことを言った。あのときは、俺がいない場所で名簿を配る話だった。
ひと月前は、それで済ませた。今日は、済まない。
「なら、あんたの名簿でいい」
「わたくしがですか?」
「あぁ」
エリシアは、少し黙ってから、紙を1枚、裏返した。裏には、もう名が書いてあった。この女は、決めさせられる前に、決めている。
「行くのは、ゼノ様と、アステリア様と、ヴィント殿でございます」
「僕、ですか」
ヴィントが、顔を上げた。
「峠の道は、ヴァリスの古い測量図にございます。宰相府の写しを、あなたが持っておられます」
「……父の、荷の中にありました」
「持ってきておられますね」
ヴィントが、黙ってうなずいた。
リィナが、立った。
卓を回ってエリシアの前まで行き、焼けた両手を卓に載せた。布の内側で、指が動かなかった。
「わたしが入っていません」
「はい」
「なぜですか」
「その手で、剣が持てますか」
リィナは、布を1枚、歯で外した。下の掌は、赤黒く固まっていた。その上に、透明なものが浮いている。中庭で見たときより悪い。この女は、布の上から物を掴み続けている。
「持てます」
「持てません」
「持てます。……3日あれば、乾きます」
「4日でも乾きません」
「エリシア様」
エリシアの指が、卓の上で止まった。
「あなたは、いつも、わたしのできないことを数えます」
俺は、また口を出さなかった。
エリシアは、リィナの手を見てから、顔を上げた。
「数えております」
エリシアの目は、リィナの掌へ戻っていた。
「あなたが井戸の輪を掴んだとき、わたくしは回廊におりました。……見ておりましたのに、動けませんでした」
「落とせました」
「知っております。……あとで、あなたの手を見ました。見てから、わたくしは、自分の掌を見ました」
エリシアは、自分の手を開いた。
掌は、白い。傷が1つも無い。18歳の王女の手だ。胼胝が、右の中指に1つだけある。
「わたくしの手は、焼けておりません。焼ける場所に、立っておりませんでしたので」
「それは」
「責めておりません。……ただ、あなたが行けば、わたくしはまた、回廊から見ているだけになります」
リィナが、何か言おうとして、口を閉じた。
口の端が一度引きつって、それから、元に戻った。
その横で、フィーネが炭を置いた。その音が、2人の間に落ちた。
「わたし、口を挟みますわ」
「フィーネ様」
「お2人とも、行きたい理由を仰っていませんの」
彼女は、2人を順に見た。
「リィナ様は手が焼けている。エリシア様は回廊から見ているだけ。……どちらも、行きたい理由ではありませんでしょう」
俺は、フィーネを見た。
この女は、詰めるときに、必ず相手の言葉を並べ直してから、足りない1つを指す。宰相府の写しを読むのと同じやり方だ。
「じゃあ、あんたの行きたい理由は何だ?」
「わたしには、ありませんの」
「無えのか」
「ええ。……わたしは、ここで7人が降りたあとのことを書きます。誰かが書いておきませんと、次に同じことが起きたときに、また最初から調べることになりますわ」
リィナは、そこで座って、外した布を、自分で巻き直した。巻き方が、また雑だった。
「……わたしは、離れたくないだけです」
リィナは、顔を上げなかった。
エリシアが、卓の紙を裏返し直して、書いた名の上に、指を置いた。その指が、少し動いて、止まった。
「……わたくしも、同じでございます」
「では、なぜわたしを止めるのですか?」
「止めておりません。……数えただけで」
俺は、口を開いた。
「リィナ」
「はい」
「あんたは、どうしたい?」
彼女は、俺を見て、口を開いた。
そのまま、巻いた布の上から、自分の掌を握った。痛かったらしく、肩が跳ねた。
俺は、答えを待たずに、卓の地図を巻いて、ヴィントに投げた。
「測量図を出せ。道の幅を見る」
「は、はい」
その晩、俺は中庭に出て、井戸の縁に座った。
下を覗いた。底は暗いが、4本と弧の石は、そこにある。今朝、俺はあそこへ落ちた。
落ちた場所を、18年前に彫った者が、いまも向こう端で動けずにいる。
石を1つ拾って、縁を3度叩いた。
間が空いてから、底の方で音が鳴った。水ではない。石だ。
3つ。
俺は、11、叩いた。
11、返ってきた。それから、向こうが1つ余計に打った。ルシェだ。あの女は、俺が跨いだ日から、足の穴に石を当てて、返事を待っている。
俺は、もう一度、11を叩いた。
途中で、止まった。
俺の手ではない。7つ目まで返ってきて、8つ目が来なかった。
待った。井戸の石を握ったまま、息を10、吐いた。
来ない。
代わりに、井戸の底で、別の音がした。石が擦れる音だ。底の1枚石の上で、弧の端が、今日の昼より指1本ぶん内側へ寄っている。
俺は、井戸の縁から手を離した。
向こうで数えているのが、今夜から、ルシェではないかもしれない。




