第171話 母が、自分を詰めました
「あんたの母親は、天界のてっぺんにいるんじゃねえのか?」
「いました」
アステリアは、そう答えてから、卓の紙の弧をもう一度なぞった。指が、途中で一度止まって、また端まで戻った。
「18年前までは、いました」
広間の火が、1つ、傾いた。風だ。北側の窓の羽目板が1枚、3か月前から割れたままになっている。直す者がいない。
グレイグが、その窓を見て立ち上がり、外套を丸めて隙間に詰めてから、何も言わずに座り直した。
グレイグは、人より先に壁と蝶番を見る。
「18年前に、何があった?」
「母が、自分を詰めました」
フィーネの手が、止まった。
その手が、持っていた炭を卓に置いた。炭は転がって、地図の端で止まった。
「詰める、とは。……石の谷で伺った、あの詰めるですの?」
アステリアが、うなずいた。
「器を押さえの線へ移すのでしょう。移した者は、魔法を失いますわ」
「失います。……それから、動けなくなります」
俺は、ローデン砦の井戸の底の石を思い出した。4本と弧が彫られた1枚石だ。あの弧を、200年、誰も使っていないと聞いていた。
使っていなかったのではない。18年前から、使われていた。
「あの弧が、あんたの母親か」
「弧の向こう側です」
アステリアは、そう言い直した。
「石は、こちらの端です。母は、向こうの端にいます。……線は、両端に人が要ります」
「こっち側の端には、誰がいる?」
「200年、誰もいませんでした」
「片方だけで、保つのか」
「保ちません。……ですから、18年、少しずつ削れています」
「何が削れる?」
「母がです」
エリシアが、顔を上げた。
その顔は、火の方を向いていた。この女は、考えるときに人の顔を見ない。火を見たまま、こう言った。
「では、その線は、何のために張られたのですか」
「ゼノを、下ろすためです」
広間が、静かになった。
全員が、同じ方を向いていた。俺の方だ。
俺は、卓の上の紙を見ていた。線が4本と、弧が1つ。18年前、俺はこの石の上に落ちて、そこから人間界の底を這い上がった。
落ちた場所が、偶然だと思っていた。
「……待て」
俺は、紙から目を上げた。
「俺は、天界で消された。消えたものが、下に落ちる」
「落ちません」
アステリアは、首を横に振った。
「消されたものは、どこへも行きません。……上の帳から外れた者は、白い場所に立ったまま、向きも変えられなくなります。あなたが今日、通ってきた場所です」
俺は、今朝通った白い場所を思い出した。
人が立っていた。別々の方を向いて、動かずに立っていた。1人だけ、首を回して、口を3度動かした。
「俺は、そこにいなかった」
「母が、外へ落としました」
「落とすのに、線が要るのか?」
「落とす先が、要ります」
彼女は、卓の紙を俺の方へ押して、4本の線の方を指した。
指の先が、少し震えていた。この娘は指を紙に押しつけた。
「この4本が、受ける場所です。……石の上に、人ひとり分の座を作りました。作らなければ、あなたは落ちる先がありません」
「200年、空だった座だな」
「空けてあったのではありません。母が、18年前に彫りました」
ヴィントが、そこで初めて口を開いた。
砦に来てから、ほとんど喋っていない。父が北の穴へ流されてから、人前で長く喋らなくなった。
「……あの、ひとつ、よろしいでしょうか」
「あぁ」
「その、彫った、という話ですが。……200年前の石に、18年前に手を入れたのなら、跡の新しさが違うはずです。僕は、井戸の底を見ました。全部、同じ古さでした」
アステリアは、その言葉にうなずいた。
「はい。……母は、彫ったあとに、200年ぶんの時を、石にだけ進めました」
「そんなことが、できるのですか?」
「一度だけです。……次元魔法で、その石の時だけを送りました」
ヴィントは、黙って自分の手を見てから、卓の下でその手を握った。拳が、震えていた。この男が震えるのは、怖いときではない。分からないものを、目の前に置かれたときだ。
「なんで、そこまでした」
俺は、そう訊いた。
答えで、俺の行動が変わる。母親の情の話なら、俺には関わりが無い。取引なら、まだ続きがある。
「取引です」
アステリアの答えは、早かった。
「母は、上に、あなたを品として要求する文を書きました。7通目です。……書いた者が、受け取る前に落としました」
「自分で寄越せと書いて、自分で逃がしたのか」
アステリアは、目を伏せたまま、うなずいた。
「意味が分からねえ」
「わたしにも、18年、分かりませんでした」
リィナが、立ち上がった。
卓を回って、アステリアの横に来ると、焼けた両手で、その娘の肩を掴んだ。掴み方が、乱暴だった。布が、掌の傷に当たっている。
「リィナ様。……痛いはずです」
「手を離しません。……あなた、18年、それを1人で持っていたのですか」
アステリアは、答えなかった。
肩を掴まれたまま、俺の方を見て、それから、視線を下げた。
「……わたしは、母に訊けませんでした」
「なぜですか?」
「訊けば、母は答えます。答えるときに、自分のしたことを、言葉にしてしまいます。……言葉にすると、上の者に聞かれます」
フィーネが、炭を拾い直した。
地図の余白に円を1つ描いて、その中に線を9本引いた。9本目だけ、途中で止めた。
「……第9の座」
彼女は、炭の先で9本目を叩いた。
「聖国の空席は、この方でしたのね。名を記すことを禁じられた座」
「禁じられたのではありません」
アステリアが、その円を見た。
「母が、自分で、名を削りました。削ってから、下へ降りました。……名の無い者は、正す者の一覧に載りません」
「じゃあ、あんたの母親は、いま、上から見えてねえのか」
「見えていませんでした。……今日までは」
俺は、卓に手をついた。
手の下で、地図が滑った。その下から、井戸の石の写しが出てきた。4本と弧だ。
今日、帳が2つ動いた。俺が1つ、アステリアが1つ。
動いた分を正しに来るなら、正す者は、まず、動いた場所を見る。動いた場所には、18年、誰にも見えなかった線が1本、張ってある。
「アステリア」
「はい」
「俺が今日ここへ落ちたことで、あんたの母親は、上から見えるようになったか」
彼女は、そこで顔を上げて、俺を真っ直ぐ見た。
目の端が、下がった。この娘が困ったときに、そうなる。18年前も、同じ顔をしていた。
「……はい」
その返事が終わる前に、井戸の方で、音がした。
石が鳴る音だ。中庭の井戸から、真下へ向かって落ちていく音だった。俺は立ち上がって、窓へ寄って、板の隙間から下を見た。
中庭の井戸から、光が上がっていた。
細い。1本だけだ。上がって、空の途中で止まって、そこから横へ折れた。その先は、北だった。
「グレイグ」
グレイグが、窓の横へ来た。
「あの光の折れた先に、何がある?」
「……山だ。峠が1つ。その向こうは、聖国の領だ」
俺は、後ろを振り返った。アステリアが、窓の方を見て、立ち尽くしていた。翼が、背中で半分開いたまま、畳むのを忘れている。
「あれは、何だ?」
「……印です」
彼女は、そう答えた。
「上が、下に、場所を教えるときの印です。……あの光の下へ、7人が降ります」




