第170話 わたしの母です
俺は、その言葉に返事をしなかった。
18年前に何を訊かれたのかを、思い出そうとしていた。
思い出せなかった。
あの日の回廊の白さも、後ろで言われた「遅うございました」も覚えている。その前の、こいつと立っていた場所だけが、抜けている。
「覚えておられませんね」
「あぁ」
「……そうですか」
言い方に、詰める色が無かった。確かめて、済ませた言い方だ。
「教えろ」
「教えません」
「なんでだ?」
「教えると、いま答えてしまわれます」
彼女は、翼を背中で畳み直した。畳むときに、肩が少し前へ傾いた。その分だけ、背が低く見えた。
「18年待ちました。……いま思い出していただかなくても、困りません」
「困るだろうが」
「困りますが、いま困るのと、あとで困るのは、別です」
俺は、こいつが18年、何をしていたかを、少しだけ思い返した。人間界に降りて、麦の刈り跡に落ちて、椀の冷まし方を教わった者だ。
数え方が、人間に似てきている。
回廊の方から、足音がした。
速い。走ってはいない。走らずに速く歩く者を、俺は1人だけ知っている。廊下で走るのは行儀が悪いと、この女は10歳の頃に叩き込まれている。
エリシアだった。
エリシアとは、ひと月ぶりだ。
ひと月で、顔つきが変わっていた。目の下が黒い。髪のまとめ方が、粗い。そのまま、人前に出ている。
俺を見て、足が止まった。
それから、俺の顔を、上から下まで一度だけ見た。
「……お帰りなさいませ」
「あぁ」
「ご報告が11件ございます」
「先に座れ」
「座ると、崩れますので」
彼女は、そう言って、井戸の縁に手をついた。
その手が、震えていた。震えたまま、袖の中から紙を出した。広げようとして、指が滑って、2度、同じところを捲り損ねた。
俺は、その紙を取った。
「あとで読む」
「11件のうち、7件は急ぎでございます」
「なら、7件を喋れ」
「……1件目。ローデン砦の再建は、まだ半分で、石工が11人でございます」
「2件目は?」
「2件目、は」
エリシアは、そこで言葉を切った。
紙を持っている俺の手を見てから、顔を上げた。その顔が、さっきより白かった。
「……1件目を、もう一度申し上げてもよろしいですか」
「聞いてる」
「石工が、11人でございます。30人来る約束でした。……わたくしは、19人を集められませんでした」
俺が返す言葉を探している間に、横で誰かが動いた。
アステリアだ。
彼女は、エリシアの方へ2歩、近づいた。
「エリシア様」
「はい」
「19人のうち、6人は死んでいます」
エリシアが、そちらを見た。
その顔が、途中で止まった。口だけが半分開いていた。
「……6人」
「3週間前から、少しずつです。上を通った者が、南の街道で4人、砦の北で2人。……わたしが数えていました」
「なぜ、仰らなかったのですか」
「言えば、あなたは止まると思いました」
エリシアは、井戸の縁から手を離して、体の横に下ろしてから、こう言った。
「止まりません」
「止まります」
「止まりません。……わたくしは、3週間前も、昨日も、今朝も、名簿を書いておりました」
「その名簿に、6人の名は、ありますか」
「……ございません」
「では、あなたは、6人を来ない者として数えました」
エリシアの肩が、動いた。
怒ったのではない。息を吸っただけだ。その息を吐かずに、この女は、井戸の水の溜まったところを見ていた。
俺は、口を出さなかった。
出せば、どちらかの味方になる。
「アステリア様」
アステリアが、エリシアの方へ顔を向けた。
「その6人の名を、ご存じですか?」
「知りません」
「では、わたくしと同じでございます」
エリシアの声が、平らだった。平らな声を出すときのこの女が、何を我慢しているのかを、俺はひと月前に一度だけ見ている。
「……申し訳ございません」
アステリアが、そう言った。
「わたしは、数えることしかしていません。名前は、覚えませんでした。……覚えてしまうと、その者を勘定に入れられなくなると思ったからです」
「どなたに、教わったのですか?」
「母にです」
そこへ、リィナが割って入った。両手に布を巻き直している。巻き方が、さっきより雑だった。焼けた掌に触らないように巻こうとして、失敗している。
「お2人とも、あとにしてください」
「リィナ」
「ゼノ様が、濡れたままです」
俺は、自分の足元を見た。
井戸の水が、中庭の敷石の上に溜まっていた。その水は、俺の立っている場所から3歩ぶん広がって、石の目地のところで止まっている。
魔界の水ではない。この界の井戸の水だ。井戸の縁を跨いだときに、こいつだけが一緒に付いてきた。
その夜、砦の広間に、7人が集まった。
グレイグ、ヴィント、フィーネ、エリシア、リィナ、アステリア、それに俺だ。卓の上に、地図と、紙が1枚。紙には、線が4本と弧が1つ、写してある。
火は、2つしか焚いていない。薪を惜しんでいる。焚く数を減らした分、卓の端に座った者の顔が見えない。
「上は、いま、どうなってる?」
俺は、アステリアにそう訊いた。
「帳が、狂っています」
「俺のせいか?」
「あなたが1つ、わたしが1つ。……今日、2つ動きました」
「狂うと、どうなる?」
「正しに来ます」
彼女は、卓の上の紙に目を落とした。
「上には、正す役の者がいます。帳を付ける者と、帳を直す者は、別です。……今日上がっていったのは、付ける方です」
「正す方は、何人だ?」
「7人」
フィーネが、そこで顔を上げた。
「七柱、ですの」
アステリアが、うなずいた。
「祭壇の円は、5つでしたわ。2つ足りませんの」
「2つは、円に描かれていません」
「なぜですの?」
「1つは、下の界へ降りたことがないからです」
アステリアは、少し黙ってから、続きを言った。
「もう1つは、名を記すことを、禁じられているからです」
俺は、ヴェルナの床下にあった4通目の裏の印を思い出した。円が1つ、その中に線が9本。9本目だけが、途中で切れていた。
聖国の空席の座と、同じ数だ。
「その禁じられてる方が、18年前に俺を寄越せと書いた」
「……はい」
「あんた、そいつを知ってるな」
アステリアは、俺を見て、答えなかった。
代わりに、卓の紙を1枚、自分の方へ引いて、4本と弧のうち、弧の方を指でなぞった。
「この弧は、境ではありません」
なぞっていた指が、弧の端で止まった。
「支えです。……この線の向こうに、いま、人が1人います」
「誰だ」
「わたしの母です」




