第169話 18年、返事をもらっていません
井戸の縁に手を掛けて、上がった。
中庭だった。ひと月前に見たときより、石が新しい。焼けた壁を、途中まで積み直してある。積み方が、この界のものだった。
その中庭の、10歩先に、白いのが1つ立っていた。
翼は無い。
背は、人間より少し高い。麻のような布を首から足首まで一続きに纏っている。顔は若い。若いが、若く見えるだけだ。
その顔が、俺を見て、動かなくなった。
「……あなたは」
「言うな」
俺は、そう言って、闇を4枚組んで幕にした。
幕が、中庭の朝の光を食った。その分だけ、白いのが立っている場所が暗くなった。
その暗がりの中で、そいつの輪郭が縮んだ。縮んだのとは違う。光っていた分が消えて、体の大きさが見えた。布の下の肩が、俺の半分ほどしかない。
俺は、前へ出た。
その瞬間に、そいつが片手を上げた。手に、光が灯った。人間の光魔法とは色が違う。白の中に、青が1本入っている。
その光を、幕が食った。
手が、上がったまま止まった。
「……数が」
「あぁ」
「あなたは、帳にありません」
「そうらしいな」
俺は、距離を詰めた。
闇の1枚を、そいつの首の後ろへ回して、締めた。手応えが、人間と違った。骨が無い。骨の代わりに、線が3本、縦に走っている。その3本を、闇が食った。
そいつは、声を出さずに、膝から落ちた。体が、地面に着く前に、端から白くなった。白くなって、薄くなって、無くなった。
残ったのは、布だけだった。
もう1つが、井戸の反対側にいた。そちらは、動かずに、俺の落とした方の布を見ていた。それから、俺を見た。
「1つ、伺います」
「訊け」
「あなたは、どこから来ましたか」
「下だ」
そいつの首が、わずかに傾いた。
「下には、道がありません」
「開けた」
「……開けられる者が、いるはずがありません」
声が、少しだけ高くなった。この連中が声の高さを変えるのを、俺は初めて聞いた。
「帳の外から、帳の内へ入る道は、ありません」
「入ったぞ」
「はい。……ですので、帳が、いま1つ狂いました」
俺は、こいつが何を数えているのかを考えた。こちらの界に、数に入っていない者が1人増えた。その分は、どこにも載らない。
18年前、天界はそれを潰しに来た。
そいつが、動いた。俺の方ではなかった。井戸の縁だ。縁の石に手を掛けて、そのまま押し込もうとした。石は、底の1枚と繋がっている。
底の1枚には、4本と弧が彫ってある。
間に、人が入った。
リィナだ。
両手に巻いた布の下が、赤い。掌が焼けている者の巻き方だった。
その両手で、縁の石を、下から抱えた。
「どけ」
「どきません」
「潰されるぞ?」
「石が先です」
俺は、闇をもう1枚組んで、そいつの手首に巻いた。引いた分だけ、手首が縁から離れた。その手が、掌を開いたまま、宙で一度痙攣した。
その手首から先が、白くなった。
そいつは、自分の手を見て、それから、俺を見た。その目が、初めて、こちらに焦点を合わせた。
「……あなたは、ヴァルゼードですか」
「そうだ」
「渡されたはずです」
「渡された。……届かなかったらしいぞ」
そいつは、後ろへ下がって、翼を出した。畳んであったのとは違う。無かったものが、背中から出てきた。その翼が、中庭の朝の光を弾いた。
俺は、幕をもう1枚重ねたが、届かなかった。
そいつは、上がっていきながら、1つだけ言った。
「——上へ、報せます」
中庭が、静かになった。少し遅れて、砦の音が戻ってきた。石を積む音。人の走る音。誰かが誰かの名を呼ぶ音。
俺は、井戸の縁に手をついて、掌から血が出ているのに気づいた。魔界の階段で切ったのとは別の場所だ。
「ゼノ様」
リィナは、そう言ったきり、何も言わなかった。布を巻いた手で、井戸の縁を掴んだままでいた。
俺は、その手を見た。
「見せろ」
「あとで」
「いま見せろ」
「……嫌です」
彼女は、そう答えてから、自分で布を解いた。解くのに、歯を使った。
掌が、両方とも焼けていた。皮が無い。無い場所が、指の付け根から手首まで続いている。輪を掴んだ形が、そのまま残っていた。
俺は、そこへ光魔法を当てながら、訊いた。
「なんで刃を捨てた?」
「刃では、届かなかったからです」
「掌なら届くのか?」
「届きました」
リィナは、少し黙ってから、こう続けた。
「……ゼノ様。わたし、ずっと怒っていました」
「何にだ?」
「置いていかれたことにです。……あの日、わたしは何もしていません。ゼノ様が1人で行かれて、1人で落ちて、それで終わりました。……わたしは、井戸の板を見ていただけです。板を、13日見ました」
「そうか」
「今朝、その板が下から破れました。……破れた瞬間、わたしは嬉しかったんです」
リィナは、そこで言葉を切って、焼けた掌を見た。俺の光が当たっている場所だ。
「嬉しかったのが、嫌でした。誰か来るということは、下から何かが入ってくるということです。わたしは、それを喜びました」
俺は、返す言葉を探して、また、良い言い方が見つからなかった。
「あんたの手は、無駄じゃねえ」
言った瞬間に、リィナが俺を見て、笑った。眉の間に皺が寄っている笑い方だ。
「……ゼノ様。それ、女の人に言ったことがありますか?」
「2人に言った」
「怒られたでしょう?」
「1人は出ていった」
「わたしは、出ていきません」
リィナは、まだ笑っていた。
「怒っていましたけど、出ていきません。……わたしが預かっているのは、この穴1つです」
その言葉が終わったところで、中庭に影が落ちた。
上からだ。
翼だった。さっき上がっていった白いのとは、開き方が違う。もっと広い。広いのに、静かだった。
その翼が、中庭の石の上に下りた。
娘だった。背は、リィナより少し高い。栗色の髪を、肩の下で自分で切っている。目が、こちらを見た。眉の端が、下がった。
困っているような笑い方だ。
俺は、その顔を知っていた。18年前、俺が最後に見た顔だ。あの日、白い回廊へ行く前に、こいつは俺に何か言った。
俺は、返事をしなかった。
娘は、翼を畳んで、一歩、前へ出た。口を開いて、すぐには言葉が出てこなかった。
俺は、待った。
「……18年、返事をもらっていません」




