第168話 これは、わたくしのものでございます
夜明けの前に、城の者を全員、中庭に出した。
理由は1つだ。俺がこのあと消えるところを、見せておく。そうしないと、また18年、誰かが台座の前に立つ。
集まったのは、412人だった。
18年前、この中庭に並んだのは、6000だ。
ヴェルナが、卓を1つ運ばせた。階段の下に置いて、その上に帳面を広げた。1行目に今日の日付を書いてから、俺の方を見た。
「我が君。書いてよろしゅうございますか」
「何をだ?」
「出立でございます」
筆の先が、帳面の1行目の上で止まっていた。
「書くな」
「なぜでございます?」
「俺は、数に入ってねえ。……書くと、数が動く」
ヴェルナは、筆を置いてから、帳面の1行目を、指でなぞった。書いた日付だけが、そこに残った。
「では、何を書きましょう」
「今日の麦の値でも書いとけ」
「……承知いたしました」
彼女は、そう答えて、本当に麦の値を書いた。
宿場で訊いて回った数字だ。18年、この女が毎日書いてきたものと、同じ種類の行だった。
ネフィスが、東から来ていた。昨日の夜に着いて、そのまま起きている。痩せた頬の上、目の下が、窪んでいた。
「我が主。東の冬は、越せます」
「9000か?」
「9400でございます。……400は、北から下りてきた者でございます」
「グランのところの兵か?」
「左様で」
ネフィスは、頷いた。
「砦の者が、勝手に下りて参りました。頭の腕が動かなくなったので、行き先を自分で決めたのだそうでございます。……グラン殿は、止めておられません」
「何人来る?」
「今日までで400。……春までに、1200は来るかと」
俺は、砦の空が赤かった日のことを思い出した。
腕が1本無くなって、兵が勝手に歩き出した。
それでいい。
カルドは、東の6人と一緒にいた。
子供6人の後ろに立って、こちらを見ている。右肩は、上がっていない。この男が名代を名乗って回っていたのは、この秋までだ。
「俺の名は、もう使うな」
「使いません」
「東で使えるのは、ネフィスの名だ」
「……あの方は、ご自分の名を、帳面にしか書きません」
ルシェは、階段の下にいた。いつもの段に座って、右足を投げ出している。その足の横に、ミトが座っていた。この子は、昨日から、ここを動いていない。
俺は、その前に立った。
「ルシェ」
「ここに」
「痛むぞ」
「存じております」
ルシェの手は、右の足首に置かれていた。
「途中でやめたら、俺は向こうで千切れる」
「やめません」
彼女は、そう答えてから、右足を両手で持ち上げて、階段の石の上に載せた。その足首の下に、ヴェルナが畳んだ布を差し込んだ。
この2人がこういう手つきで同じものを扱うのを、俺は初めて見た。
「ミト」
「はい」
「手を貸せ」
ミトが、立ち上がった。
「……とじなくて、いいのですか」
「開ける方だ」
「あんたの手を、円の縁に置け」
ミトは、そうした。
置いた手が、肘から先だけ、見えなくなった。この子は、考えずにそれをやる。習っていないと言ったのは、嘘ではない。
「そのまま、動くな」
「うごきません」
東の空が、白くなった。
城の鐘が、鳴った。
1つ目だ。この界の1日は、この音から始まる。
俺は、闇を4枚組んで、円の中へ押し込んだ。その分だけ、円が開いた。拳2つ分が、拳3つ分になった。
そこで止まった。
押し返されはしなかった。6日前と違う。6日前は、押した分だけ戻された。今日は、戻らない。
向こうが、押している。
俺は、5枚目を組んで、重ねた。その瞬間に、階段の石が2寸、沈んだ。ルシェの足が、布の上で跳ねた。この女は、声を出さなかった。
代わりに、ミトが言った。
「ひろがってます」
拳3つ分が、掌ほどになった。
掌ほどが、頭が入るほどになった。
そこで、また止まった。
縁が、痙攣している。開こうとする力と、閉じようとする力が、同じ大きさで押し合っていた。
「あと、肩の幅だ」
俺は、6枚目を組もうとして、指が動かなかった。
天級の器で出せるのは、ここまでだ。
ルシェが、閉じようとする縁を、足の内側から押し返した。右の腿から下の全部を使っていた。
石の上で、骨が鳴った。
「ルシェ」
「まだでございます」
「足が、いくぞ」
「これは、わたくしのものでございます。……8年、使い道がございませんでした。……今日は、ございます」
円が、肩の幅になった。
俺は、そこへ頭から入った。
入る前に、1つだけ言った。この城で18年待っていた者への言葉とは違う。18年前、俺が置いていった者へのものでもない。
「帳面、つけとけ」
冷たかった。水とは違う。空気でもない。温度だけがあって、触っているものが無い。
音も無い。
俺は、そこを進んでいた。背中の方が暖かい。そっちが、城だ。
途中で、白い場所を通った。18年前に見た回廊と、同じ白さだった。床も壁も無い。白いだけの場所に、人が立っていた。
立っている。歩いてはいない。
数えられなかった。数えようとして、やめた。並び方に、列が無い。1人ずつ、別の方を向いて立っている。向いている方向に、何も無い。
俺が通っても、誰も動かなかった。
1人だけ、動いた。若い男だ。背が高くない。肩の幅が、父親の半分も無い。その男が、首をこちらへ回して、口を開いた。
声は、聞こえなかった。
口の形は、3つだった。
言い終わって、また前を向いた。その先には、やはり何も無かった。
白い場所が、後ろへ流れて、暗くなった。その先に、上からの光があった。丸い。石で囲まれている。
俺は、そこへ落ちた。
背中から、水に落ちた。水は、膝までしかなかった。底に、平たい石がある。石の上に、4本と弧が彫ってある。
見覚えがある。
18年ぶりとは違う。ひと月前に、俺はこの石の上を通った。
上を見た。
丸い口の縁から、顔が1つ、覗いていた。
逆光で顔は見えないが、髪の長さと肩の形で分かった。右の肩だけが、少し高い。
「……ゼノ様」
声が、震えていた。
「リィナか」
「はい。……ゼノ様」
「掌、焼けてるだろ」
「……なんで、ご存じなんですか」
俺は、水の中に立ったまま、上を見ていた。
縁にもう1人、顔が増えた。翼が、井戸の口を半分塞いだ。
こっちが先に見つける方が、いいに決まっていた。




