第167話 閉じずにおいたのは、わたくしでございます
翌朝、ミトは自分でルシェに言った。
俺が黙っている理由を、この子は考えもせずに、中庭で箒を持っている女の前へ行って、こう言った。
「ルシェさま。あし、なおせます」
ルシェは、箒を止めて、しゃがんだ。しゃがむのに、右足を先に投げ出す。8年、このしゃがみ方しかできない。
「どのように、でございますか」
「とじます」
「閉じますと、どうなりますか」
「あるくのが、いたくなくなります」
ルシェは、しばらくミトの顔を見てから、こう訊いた。
「あなたが閉じますと、あなたは、どうなりますか」
「……わかりません」
「わからないことを、なさろうとしたのですか」
「はい」
俺は、10歩離れた回廊から、それを見ていた。
口は出さなかった。良い判断をしたわけではない。何を言っても、また秤の話になると思った。
4日前に、俺はこの女に「あんたの足は、要る」と言った。
その口で、いま「閉じるな」と言えば、同じ言い方になる。
ルシェは、立ち上がって箒を壁に立てかけてから、ミトの頭に手を置いた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
「……ですが、閉じません」
「なぜでございますか?」
「わたくしが、閉じないと決めましたので」
言い方が、平らだった。理由を言っていない。理由を言わない言い方を、この女は18年かけて覚えている。
ミトは、それで納得した。
その日の夕方、カルドが戻った。
北の道から、子供を6人連れてきた。6人とも、村の上着の上に、東の領の外套を着ていた。歩いてきた足が、どれも汚れている。
カルドの右肩は、上がっていなかった。
「陛下」
「その呼び方はやめろ」
「姉が、そう呼べと」
彼は、そう言って、頭を下げた。その頭の上で、髪が跳ねている。姉と同じ癖毛だ。
「6人、名簿から抜きました。……ザルカの帳面には、まだ載っております」
「合わなくなるぞ?」
「もう合っておりません」
カルドは、頭を上げた。
「東の名簿を書き直しました。900を戻しました。ネフィス様が、判をお押しになりました。……ザルカから、使いが来ております」
「何て言ってきた?」
「『それでいい』とのことでございます」
俺は、少しの間、意味を取り損ねた。900は、東の兵をザルカの名簿に載せて麦を回してもらっていた分だ。抜けば、東へ麦が回らなくなる。
回らなくなるのを、ザルカが「それでいい」と言った。
「使いは、他に何か言ったか?」
「1つだけ」
カルドは、そう答えてから、懐に手を入れて、折った紙を出した。
「ザルカ様が、ご自分でお書きになったそうでございます」
俺は、それを開いた。字が、拙い。書き慣れていない者の字だ。掌に麦袋の胼胝を作った男が、筆を持って書いている。
『夜の声が、来なくなりました。
来なくなってから、西の帳面を、自分で見ております。
見ましたら、数が合いません。
3年ぶんの麦を、わたしは配っておりません。配ったと申し上げましたが、配っておりませんでした。
どこへ行ったのかを、これから調べます』
俺は、その紙を2度読んで、ヴェルナに渡した。ヴェルナは、最後まで読んでから、顔を上げた。
「西の3年分は、どこにも出ておりません」
「どういうことだ?」
「城下にも、西にも、東にも入っておりません。……わたしは、18年、この界の麦の出入りを数えております。3年分が消えましたのは、6年前と、3年前と、去年でございます」
「出した先は?」
「ございません」
ヴェルナは、そう答えた。
「この界の中に、出た先がございません。……ですが、出ております」
俺は、北の砦のことを考えた。
今年は7人。去年は11人。人は出ていた。人と一緒に、麦も出ていたなら、数は合う。
「あっちは、麦も食うのか」
「存じません」
「食わねえなら、何に使う?」
「……運ぶ者の、道中の分かと存じます」
俺は、天幕の中の声を思い出した。
あの書記は言った。運ぶ者が、手を滑らせました、と。
運ぶ者がいる。運ぶ者は、歩く。歩けば、食う。
その晩、2度目の合図を送った。
階段の下で、ルシェの足の横を、2度打った。約束の残りの日数だ。
返ってきたのは、2度だった。
合っている。
俺は掌を離そうとした。そこで、また鳴った。
今度は、数ではなかった。
短い打音が、続けて何度も来た。
数えられない。間隔が不揃いで、強さも違う。石を打っている音とは違う。何か重いものが、続けて床に落ちている。
その音の間に、別の音が混ざった。
高い。金物の音だ。
「ルシェ。動くな」
「動いておりません」
「これは?」
「……喧嘩でございましょうか」
掌を強く押し当てると、音が近くなった。その中に、1つだけ、他と違うものがあった。
人の声だ。
言葉は分からない。分からないが、女の声だった。
「ヴェルナ」
「ここに」
「向こうで、やり合ってる」
「どちらがでございます?」
「知るか」
俺は、石を掴んで、床を2度打った。約束の残りの数だ。
返ってこなかった。
もう一度、2度打った。返ってこない。
音はまだ続いているのに、こちらの数に返事をする者がいない。打っていた者が、いま、打つどころではない。
俺は、4枚組んだ。
円に押し込んだ分だけ、拳2つ分が、拳3つ分になった。そこで止まった。4日前と、同じ場所だ。
向こうから、押す力は来ていない。
「我が君。刻が違います」
ヴェルナが、そう言った。
「約束は、明後日の夜明けでございます。いま押しましても、向こうには、押す用意がございません」
「用意してる暇が無えんだろうが」
「……はい」
俺は、闇を解いて、階段の石に拳を打ちつけた。その音が、階段の下で2度反響した。
反響が消えてから、ルシェが口を開いた。
「陛下」
「何だ?」
「わたくしは、8年前、この足に穴が開きました日に、同じことをしております」
「何をだ?」
「向こうで誰かが動いている音を、聞いておりました。……こちらから、何もできませんでした」
彼女は、そう言って、自分の右足を見てから、こう続けた。
「あの日から、8年、この足は閉じておりません。……閉じずにおいたのは、わたくしでございます」




