第164話 数に入っていない
その晩、ルシェの足から音がした。
俺は、階段の4段目に座って、この女の踝に手を当てていた。その掌の下で、骨ではないものが鳴った。
1つ。2つ。3つ。間が空いて、4つ。
11で、止まった。
「聞こえたか」
「聞こえません」
ルシェは、首を横に振った。
「わたくしには、いつも、何も聞こえません。……鐘が鳴っておりましたのは、8年前の、あの一瞬だけでございます」
俺が掌を当て直すと、また鳴った。今度は、数が違う。3つで止まった。その間隔が、さっきより短い。
打っている者が、待っている。
返事が返ってこないので、また打っている。
「ヴェルナ」
「ここに」
「石を1つ持ってこい」
ヴェルナは、階段を上がって、すぐ戻ってきた。手に、拳ほどの石があった。中庭の敷石の欠片だ。
俺は、それを受け取って、ルシェの踝の横の床を、3度叩いた。
間が空いて、足が鳴った。
3つ。
同じ数が、返ってきた。
ルシェが、自分の足を見て、それから、俺を見た。この女が、俺の顔を真っ直ぐ見たのは、帰ってきてから2度目だった。
「……向こうに、誰かおりますか」
「いる」
「どなたでございます?」
「まだ分からねえ」
俺は、もう一度、石を持ち直した。
11、叩いた。
11が返ってきた。それから、向こうが、1つだけ余計に打った。
意味は分からないが、向こうも同じことをしている。数を合わせて、こちらに人がいると確かめている。
「我が君」
ヴェルナは、俺の手の石を見ていた。
「打っておられるのは、お味方でございますか」
「敵なら、数を合わせねえ」
「合わせるかもしれません」
「合わせたら、11の次に12を打つ。……こいつは、1を打った」
俺は、石を置いて、階段に背を預けた。天井の梁の真ん中が、焦げている。18年前の冬に焦げて、そのままになっている。
「ヴェルナ。この足から、俺は向こうへ行けるか」
「行けません」
即答だった。
「なんでだ?」
「穴の大きさでございます」
ヴェルナの目が、ルシェの踝へ下りた。
「8年前、鍛冶の者が開けました穴は、拳2つ分でございました。閉じ切っておりませんのは、その縁でございます。……人が通るには、肩の幅が要ります」
「広げりゃいい」
「広げる者が、要ります」
俺は、立ち上がり、階段を3段下りて、ルシェの右足の前に屈んだ。
「ルシェ。動くな」
「動きません」
俺は、闇魔法の陣を1枚組んで、穴の縁に沿わせた。縁の形は、掌で触ったときに覚えている。踝の高さに、円がある。円の内側だけ、温度が2度低い。
闇が、円の線を舐めて、止まった。
硬いからではない。食う相手が無い。俺の闇は、光を食う。この円の縁には、光が無い。光でも、闇でもない。何も無い場所を、縁として使っている。
俺は、2枚目を組んで、円の中へまっすぐ押し込んだ。
その分だけ、円が開いた。拳2つ分が、拳3つ分になった。
そこで、止まった。
止まったのではない。押し返された。
3枚目、4枚目、5枚目を組んで重ね、押した。
階段の漆喰が、上から落ちた。ルシェの足が、床の上で2寸、こちらへ引かれた。この女は、声を出さなかった。
円は、拳3つ分のままだった。
俺は、手を止めて、自分の手を見た。人間界で、俺はこの手で軍を1つ止めた。砦の下の界の境を、こじ開けたこともある。
同じことを、ここでやっている。
届かない。
「我が君」
「言うな」
「申し上げます。……階が、足りておりません」
ヴェルナは、そう言った。
「天級では、足りません。この円を人の通る幅まで開けますのは、極級でございます」
18年前、俺は極級だった。この界で、極級は俺1人だった。
いまは、天級だ。
跨いだときに、器が作り変えられて、届いたのが天級だった。
「もう一度、跨ぎゃいいのか」
「そのように聞いております」
「誰から聞いた?」
「前の主でございます」
ヴェルナは、そう答えて、一度目を伏せてから、顔を上げた。
「跨げば、器が作り直されます。そのときにどこへ届くかは、跨ぐ前の魔力量では決まりません。……ですが、跨ぐには穴が要ります。穴を開けるには、階が要ります」
「輪になってやがる」
「はい」
俺は、階段に座り直して、ルシェの足の円を見ていた。拳3つ分に開いたまま、縁が、ゆっくり戻りつつある。
その戻りが、遅い。
8年、閉じ切らなかった理由が、これだ。この円は、押さえが利いている。
「ヴェルナ。あの書記は、こう言った」
俺は、足の円から目を上げた。
「上の帳では、いまもこの界が1つ足りない。その1つが埋まれば、帳は閉じる。閉じた帳の外に出たものは、あちらの好きにしていい」
「伺っております」
「足りない1つってのは、俺だ」
「……はい」
「俺は、18年前に、あっちへ渡された品だ。着いた先で消えた。消えたものは、数に入らねえ」
俺は、自分の掌を見て、ミトが塩の壺を取ってきたときの手を思い出した。肘から先だけ消えた手だ。誰も、それを数えなかった。
「ミトは、数に入ってねえ。……俺もだ」
「我が君」
「同じだ」
「違います」
ヴェルナの声が、初めて、俺の言葉に逆らった。
「あの子は、数に入っておりませんので、使い捨てにできます。我が君の場合は、そうではございません」
「どう違う?」
「戻っても、誰も、戻ったと数えません」
返す言葉が見つからないまま、俺は、階段の下の暗いところを見た。
18年前、俺はこの城で数えられていた。魔王ヴァルゼードの名は、どの帳面にも、一番上にあった。
いまは、どこにも無い。
「なら、都合がいい」
階段の下の暗がりから、目を戻した。
「数に入ってねえなら、出入りしても、帳は動かねえ。……ミトを使わずに済む」
「お1人で、でございますか」
「あぁ」
「お戻りになれません」
「戻る話は、あとだ」
ルシェが、そこで初めて口を開いた。
「陛下。それは、8年前に、わたくしが申したことでございます」
「何て言った?」
「戻る話は、あとだ、と」
彼女は、そう言って、投げ出した足を、自分の手で持ち上げて、膝の上に載せた。
その足の甲を、掌で一度だけ撫でた。8年、この女がこの足に触るところを、誰も見ていないはずだった。
「わたくしは、その言い方で、これを失いました」
階段の上で、音がした。兵が1人、走ってきていた。息が上がっている。城の門から、ここまで走ってきた顔だった。
「陛下。門に、東からの使いが」
「ネフィスか」
「いえ。ザルカ様の、お使いでございます」
俺は、立ち上がって、階段を上がりながら、兵に訊いた。
「何を言ってきた?」
「その、……お一言だけでございます」
俺は、階段の途中で足を止めて、その兵の顔を見た。兵は、息を1つ整えてから、口を開いた。
「『夜の声が、3日前から、こちらへ来なくなりました』」
俺は、下を振り返った。階段の下で、ルシェが自分の足を抱えている。あの足の向こうで、誰かが石を打っている。
3日前は、俺が北の砦の天幕を出た日だった。




