第163話 わたしが預かっているのは、この穴1つです
◇
6日目の夜明けに、井戸の板が鳴った。
上からではない。下だ。石4つで押さえた板が、下から突き上げられて、埃を落とした。
その音を、最初に聞いたのはリィナだった。
彼女は、中庭の柱の陰にいた。3日前から、そこで寝ている。外套を1枚被って、背を柱につけて、膝を抱えて眠る。眠り方が浅いので、板の埃が落ちる音で目が覚めた。
まず、右手で木剣ではなく本身の柄を掴んでから、立った。掌が、柄の巻き革の縫い目を、いつもの位置で捉えていた。
「アステリア様」
呼んだ声は、大きくなかった。そうしなくても、届く場所にいてもらっている。井戸から12歩。アステリアは、その位置に6日座って、上を数えていた。
「……降りました」
アステリアの顔は、まだ上を向いていた。
「3つ、ですか」
「2つです」
「1つは?」
「まだ上にいます。……降りた2つを見てから決めるつもりだと思います」
立ち上がるとき、アステリアの背中が少し前へ傾いた。翼を畳んでいる者の立ち方だ。
ヴィントが、杖を突いて回廊から出てきた。指を3本立てている。配置の合図だ。エリシアが決めた形で、3は「人を出さずに囲う」を意味する。
「石工は?」
「全員、外の窪みへ入れたわ」
フィーネが、回廊の反対から答えた。
「11人だけでしたから、早く済みましたわ」
「皮肉ですの?」
訊いたのは、回廊にいたエリシアだった。
「事実ですわ」
フィーネは、そう言って、井戸の3歩手前で足を止め、手の中の紙を見た。紙には、線が4本と弧が1つ、写してある。井戸の底の石に彫られた形だ。
「アステリア様。伺ってよろしくて?」
「はい」
「降りてくる方々は、この石をご覧になったら、何をなさいますの」
「消します」
「……消える石なんですの、これ」
「石は消えません。彫った線を、数から外します」
フィーネは、紙を畳んで懐へ入れ、いつもの調子で言った。
「では、写しを取っておいてよかったですわ」
「写しは、数に入りません」
「ええ。だから取りましたの」
板が、2度目に鳴った。今度は、石が1つ、横へ滑って縁から落ち、中庭の敷石を割った。
グレイグが、槍の石突で床を一度叩いた。
「来るぞ。鉄が鳴らん相手だ。……当たると思って構えるな」
板が、内側から折れた。その間から、最初に出てきたのは、手だった。
白い。血の色が下に無い白さだ。指が長く、爪が短い。その手が縁を掴んで、体を引き上げた。出てきた者に、翼は無かった。
背は、人間より少し高い。
麻のような布を、首から足首まで一続きに纏っている。顔は若く見えるだけで、年齢の手がかりが1つも無い。
目が、こちらを見ていない。
それなのに、正確にアステリアの方を向いた。
「セレスティアの娘」
その者は、そう言った。
「戻りなさい。数が動きます」
「動かしに来ました」
アステリアの声は、震えていなかった。リィナは、その声を横で聞いて、一度だけ、この人の横顔を見た。眉の端が、いつも通り下がっている。困っているような顔だ。
2人目が、井戸から上がった。1人目より、背が低い。手に、輪を持っている。光の輪だ。ローデン砦で40人がかりで運ばれたものと、同じ形をしていた。
グレイグが、それを見て、口の中で短く何か言った。聞こえなかったが、部下を死なせた男の言い方だった。
「その娘に嵌めるのか?」
彼の槍の穂先が、輪の方へ下りた。
「あなた方には、関わりのないことです」
「関わりならある。俺の兵が211人、それで死んだ」
輪を持った方が、動いた。速い。人間の速さとは違う。地面を蹴った音もなく、距離が縮んだ。
リィナが、その前に出た。
考えてのことではなかった。身体が先に出て、右足の指が敷石を掴んだ。彼女の足は、石の目地を覚えている。3日、同じ場所に寝ていた。
刃を、上へ出した。
刃は、当たらなかった。輪を持った腕が、刃の通る場所を通らずに、横へ抜けた。その先が、アステリアの首の高さだ。
リィナは、そこで刃を捨てた。
両手で、輪を掴む。
掌が焼けて、音がした。彼女は、声を出さずに輪を自分の方へ引き、体ごと後ろへ倒れながら、輪を、井戸の穴へ落とした。
輪が、底で鳴った。いつもの井戸の音とは違う。石に当たった音の後に、もう1つ、遠い音が続いた。
その音を聞いて、アステリアの顔の形が、初めて変わった。
「いま」
彼女の目は、井戸の穴へ向いていた。
「いま、下から、返事がありました」
輪を落とされた方が、リィナを見て、片手を上げた。その手に、光が灯った。人間の光魔法は、こういう色にならない。
エリシアの声が、回廊から飛んだ。
「リィナ」
リィナは、立たなかった。倒れたまま両足で敷石を蹴り、井戸の縁まで滑って、縁の石に背を当てる。
その背の後ろが、穴だ。
彼女は、そこで初めて、笑った。
「わたしが預かっているのは、この穴1つです」
言って、両腕で、縁を抱えた。
その腕の上に、光が落ちてきた。
落ちる途中で、その光が、フィーネの立っていた方へ折れた。彼女は、井戸の3歩手前に屈んでいた。さっき畳んだ写しを、地面に広げて置いていた。
その上を、光が滑って、敷石の割れ目に吸い込まれた。
「フィーネ様、それは」
縁を抱えたまま、リィナが言った。
「線の写しですわ。……数に入らないものは、あちらから見えませんの」
「それ、いま思いつきましたの?」
回廊から、エリシアが訊いた。
「6日前ですわ」
フィーネとエリシアが、同時に井戸の方を見た。
1人目の者が、初めて動いた。
アステリアの正面に立って、こう言った。
「セレスティアの娘。名を言いなさい」
「アステリアです」
「その名は、まだ帳にあります。……いま、外します」
アステリアは、一歩前へ出て、背中の外套の紐を、片手で解いた。
外套が落ちて、その下から、畳んだ翼が開いた。中庭の幅いっぱいに開いて、朝の光を、6日ぶりに受けた。
「外してください」
開いた翼の先が、回廊の柱に触れていた。
「わたしは、18年、上の帳に載っていました。そのあいだ、何ひとつできませんでした。……外れたら、できます」
井戸の底で、また音がした。さっきより、大きい。石に当たる音とは違う。何かが、底の石を下から叩いている。
リィナは、縁を抱えたまま、その音を数えた。
1つ。2つ。3つ。
間が空いて、また4つ。
11で、止まった。




