第162話 錨
ルシェは、城を出ていなかった。
門にはいない。厩にもいない。俺が見つけたのは、西の階段の下だった。段の数は37。18年前と同じだ。
その3段目に、箒が1本、立てかけてあった。
本人は、その横に座っていた。
段に腰を下ろして、右足を前へ投げ出している。左の膝は普通に曲げていて、そこに、布を巻いた靴が載っている。脱いだ方の靴だ。
俺は、5段上から声を掛けた。
「出ていくんじゃなかったのか」
「出ます」
「箒を置いてからか?」
「置き場所を決めておりました」
彼女は、そう答えて、箒の柄を指で弾いた。乾いた音が、階段の下で2度、反響した。
「次に掃く者が、どこにあるか分かりませんと、困ります」
「ここに置いたら、分かるのか」
「3段目でございます。この段だけ、角が欠けております。誰でも、一度は躓きます」
「躓いた奴が、箒を見つけるのか」
「見つけます」
俺は、階段を下りて4段目に座った。この女と目の高さが揃って、初めて気づいたことがある。
ルシェの目は、碧い。
18年前から碧かったはずだ。俺は、薄い色だとしか、思っていなかった。この女は、俺の前では、いつも頭を下げていた。
「あんたの足を見せろ」
「先日、お見せいたしました」
「あのときは、上から見た。今度は、触る」
ルシェは、動かないまま、箒を見ていた。それから、投げ出した右足を、少しだけこちらへ寄せた。
俺は、その足首を掴んで、驚いた。
冷たいのとは違う。温度が、揃っていない。踝から上は、この女の体温だ。踝から下が、それより2度ほど低い。低いだけなら、血の巡りの話で済む。
問題は、その境目だった。
境目に、線がある。
肌の上の線とは違う。皮の下でもない。触っている俺の指の感覚の中に、線がある。踝の高さで、足が2つに切れていて、それでも繋がっている。
腿の半ばまで入れたと、この女は言っていた。閉じていく穴から脚を引き抜くあいだに、縁が踝まで下りて、そこで止まったのだろう。
俺は、指を1本、その線の上に置いた。
指の先が、少し引かれた。
「陛下」
「動くな」
「そこは、押しますと——」
俺は、押した。
指の第一関節から先が、消えた。
その先が、冷たかった。風の温度が違う。土の匂いが違う。焼いた麦の匂いが、指の腹に当たっていた。
俺は、指を抜いて、自分の手を見た。指先に、白い粉が付いている。小麦粉だ。この界には、この挽き方をする粉が無い。
「……8年、ここに穴が開いたままか」
「開いておりません」
ルシェは、俺の指先の粉を見ていた。
「閉じております。閉じておりますが、閉じ切っておりません。……鍛冶の者が死にましたので、最後まで縫う者がおりませんでした」
「あんた、これを誰かに見せたのか?」
「見せておりません」
「なんでだ?」
「見せますと、取られます」
声が、平らだった。18年、この城で使い続けた声だ。
「この足は、帳面に載りません。……載らないものを持っていると知られますと、いつか、誰かが理由を付けて持っていきます」
ヴェルナの言葉を思い出した。品と申しませんと、差し出せません。
1人は、差し出すために名を外した。もう1人は、取られないために足を隠した。
階段の上で、音がした。
ヴェルナが立っていた。手に、何も持っていない。1104回擦った包みを、今日は持ってきていなかった。
「ヴェルナ殿」
「……失礼いたします」
「聞いておられましたか」
「聞いておりました。7段目から、全部でございます」
ルシェは、投げ出した足を引かなかった。
「では、これも売られますか」
「売れません」
「なぜでございます?」
「持ち主が、お歩きになるからでございます」
ヴェルナは、階段を下りてきて、ルシェの2段下で膝をついた。この女が膝をつくのを、俺は18年前に3度見ている。3度とも、俺の前でだった。
今日は、俺の前ではなかった。
「ルシェ殿」
「おやめください」
「絵のことを、8年、申しませんでした」
「存じております」
「申しませんでしたのは、あなたが毎朝あの壁を払っておられたからでございます」
「……知っていて、放っておかれたのですか」
「放っておきました」
ヴェルナは、そう答えた。
「止めますと、あなたの朝が1つ、無くなります。18年のうち、8年は、あの壁がありました。……わたしには、それを取り上げられませんでした」
ルシェは、箒の柄に目を落としてから、こう言った。
「わたくしは、あなたが嫌いでございます」
「存じております」
「18年前から、嫌いでございました」
「存じております」
「ですが、あなたがいなければ、この方はお戻りになりませんでした」
彼女は、そう続けた。
「わたくしは、そのことを、口に出すのが厭でございます。……いま、申しました。もう、言いません」
ヴェルナは、膝をついたまま、頭を下げた。
しばらく、その頭を上げなかった。
俺は、その2人を見ていて、自分が何も言わない方がいいことだけは分かった。それでも、口を開いた。
「ルシェ。あんたの足は、要る」
言った瞬間に、空気が変わったのが分かった。
言い直す言葉が、また出てこなかった。
ルシェが、顔を上げて笑った。目を細める、あの笑い方だ。
「陛下。ミトを品と呼ばなかった方が、わたくしの足が要ると仰いました」
「そうだ」
「同じでございます」
「違う」
続きを探して、見つけたのは、あまり上手い言い方ではなかった。
「あの子を使えば、あの子が消える。……あんたの足は、あんたが使う」
ルシェは、動きを止めて、俺を見た。細めた目が、その間に元に戻った。
「わたくしが、でございますか?」
「あぁ」
「わたくしは、渡れません。半分入って、閉じられただけでございます」
「半分入ったままだろうが」
俺は、階段から立ち上がって、この女の右足を指した。
「その足は、いま、向こうにある。8年だ。……そうやって置きっぱなしにした重しを、錨って言うんだ」
「いかり」
「船を止める石だ。人間界の言葉だ」
ヴェルナが、そこで顔を上げて、俺を見た。その目が、初めて、18年前と同じ速さで動いた。この女は、勘定が合った瞬間に、目だけが先に動く。
「我が君。それは、押さえでございますか」
「近い」
「では、この方の足は、人の界のどこに——」
俺は、指に付いた粉を、もう一度見た。
白い。粗い。人間界の南の麦ではない。北の、石臼で2度挽く土地のものだ。
「焼いた麦の匂いがしたと言ったな」
「いたしました」
「どんな音がした?」
ルシェは、そこで目を閉じて、8年前の一瞬を、辿り直す顔をした。
「……鐘が、鳴っておりました」
「いくつだ?」
「11でございます。……この界の鐘は、6つしかございません」
《《人の界で、鐘を11持っている町を、俺は1つだけ知っている》》。




