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第161話 品と申しませんと、差し出せません

城に戻ったのは、3日後の昼だった。


門を抜けると、中庭に人が増えていた。東から下ろした者の一部が、城の普請に入っている。ネフィスが回した35人だ。石を運ぶ者が18人、竈(かまど)を直す者が9人、残りは水路にいた。


18年、この城には、働く音が無かったと聞いている。


いまは、ある。



厨房の前に、ルシェが立っていた。


戸の中を見たまま、そこから動かない。この女は、部屋の中の者を見るとき、必ず戸の外に立つ。18年、そうしていたのだと思う。


俺は、その横に並んで、同じものを見た。



ミトが、椅子に座っていた。


麦の粥を食っている。器を両手で持って、縁から少しずつ流し込む食い方だ。8歳にしては、静かすぎる食い方だった。


椅子が高い。足が床に届いていないのに、揺らしもしなかった。



「4日で、器2つ分でございます」


ルシェの目は、戸の中から離れなかった。


「陛下がお発ちになった日は、1口も口に入れませんでした。次の日に、半分。今日で、2つ目でございます。……与えれば食べます。ですが、自分から欲しがりません」


「訊いたか?」


「伺いました。『いただいてよろしいのですか』と、毎回申します」



俺が厨房の中に入ると、ミトが椅子から下りて、床に膝をついた。慣れた速さだった。


「立て」


「……はい」


立ったが、顔は上げなかった。



「塩を取れ」


ミトが座っていた卓の上に、塩の壺が無かった。壺は、竈の向こうの棚にある。棚までは、竈を回り込んで6歩ある。


ミトは、返事をしないまま、右手を前に出した。



その手が、肘(ひじ)から先だけ、見えなくなった。


消えたのではない。空気の色が、その部分だけ、水を挟んだように歪(ゆが)んだ。その向こうで、棚の上の壺が、少し動いた。


戻ってきた手に、塩の壺が載っていた。



ミトは、それを卓に置いてから、初めて顔を上げた。誇る色は無い。褒められるのを待つ顔でもない。壺を取ってこいと言われたので取ってきた、という顔だった。


「いつもこうです」


「誰に習った?」


「習っていません」



背後で、音がした。


ルシェが、戸の枠を掴んだ音だった。指の関節が、白くなっている。この女が声を出さずに何かを掴むのを、俺は城で2度見ている。2度とも、足の話をしていたときだ。


「陛下」


「何だ?」


「……もう一度、やらせてくださいませんか」



俺は、ミトを見た。


「壺を戻せ」


ミトが、また手を出す。肘から先が消えて、壺が棚の上へ戻った。


ルシェは、それを最後まで見届けた。


厨房の中へ入ってきて、ミトの前に、右足を先に投げ出して膝をつく。あの足は、曲がらない。



「痛みますか」


彼女は、そう訊いた。


「いいえ」


「手が、痺れませんか」


「しびれます。すこし」


「……どのくらいで、治りますか」


「ねるとなおります」



ルシェは、そこで目を閉じて、開けた。いつもの顔に戻っていた。この女は、顔を直すのが速い。


「ミト。厨房で、しばらく待っていてくださいますか」


「まっています」



廊下に出ると、ヴェルナがいた。


いつから立っていたのかは分からない。この女は、足音を消して立つ。俺が出てくるのを待っていた。手に、紙を1枚持っている。


ミトの外套に縫い込まれていた、3行の紙だ。



「我が君。1行目を、もう一度お読みいただけますか」


「『この者は、数に入っていない』」


「2行目を」


「『渡れる者を1人、そちらへ回した。使い方は問わない』」


「……では、あの子は、品でございます」



ヴェルナの言い方が、平らだった。それが、悪かった。ルシェの右肩が、上がった。


「ヴェルナ殿」


「はい」


「いま、何と仰いました」



「品でございます」


ヴェルナは、繰り返した。


「天が、この界へ回したものでございます。理由も、そこに書いてございます。……使い方は問わない、と。あちらは、あの子を使わせるために寄越しました」


「何に使う」


「界を、渡ります」



廊下が、静かになった。


窓の外から、石を落とす音が聞こえた。普請の音だ。遠い音が、ここまで届くほど、廊下は静かだった。


「ヴェルナ殿。それは、お考えですか。それとも、もう決めておられますか」


ルシェが、そう訊いた。



「決めておりません」


「では、いま、取り消してくださいませ」


「取り消しません」


ヴェルナの目が、一度、俺の方へ来た。


「我が君は、いま、天へ渡る手をお持ちでございません。次元魔法には、まだ届いておられません。押さえの石は、人の界にございます。……使える手は、あの子1人でございます」



「あの子を使えば、あの子は消えます」


ルシェの右肩は、上がったままだった。


「8年前、わたくしに穴を開けた者は、その場で死にました。80を過ぎた鍛冶でございました。……渡れる者が渡す側に回りますと、渡した者が数を払います。あなたは、それを知っておられます」


「存じております」


「知っていて、なお仰るのですか」



「申します」


ヴェルナは、そう答えて、紙を持ち直した。端を摘まんだ指は、床下の油紙の包みの角を、1104回擦った指だ。


「わたしは、18年、我が君をお戻しするために働きました。戻られました。……ここから先、天へお運びするものが1つしかないのでしたら、わたしは、それを差し出します」



「8歳です」


「存じております」


「名がございます。ミトと申します」


「存じております」


「では、なぜ品と仰るのですか」



ヴェルナは、そこで一度、口を閉じた。次に出た声が、初めて、少し低くなった。


「品と申しませんと、差し出せません」



ルシェは、動かないまま、廊下の床を見た。真ん中の3尺だった。8年、この女が掃いてきた幅だ。


「……あなたは、そうやって、鎖を3本売られたのですね」


「売りました」


「絵も、そうでございますか」


「絵は、焼けました」



「焼けたのではございません」


ルシェは、そう言った。


「あの冬、絵は焼けておりません。柱は焦げました。鎖は落ちました。絵は、あとになって壁から外されました。……外した者は、この城で1人でございます」


俺は、2人の顔を見た。



ヴェルナは、否定しなかった。


「売りました。8年前でございます。売った金で、東へ麦を2年分」


「わたくしは、その絵の前で、毎朝、埃を払っておりました」


「存じております」


「壁に、何もない場所を、8年、払っておりました」



ルシェは、そう言って、廊下を歩き出した。


3歩で止まり、振り返らずに、こう言った。


「陛下。あの子をお使いになるのでしたら、わたくしは、この城を出ます」



俺は、その背中を見送った。追えば、また、東の館で使ったのと同じ言葉を使う。あんたは無駄じゃねえ、と言って、この女を一度、殴ったようなものだった。


代わりに、厨房へ戻った。



ミトは、椅子に座り直していた。


また器を両手で持っている。中身は、もう無かった。


「ミト」


「はい。ここにいます」


「あんた、帰り方は知ってるか?」



「かえる、ばしょ」


ミトは、そう言って、器の底を見た。それから、こう続けた。


「グランさまのところは、6日です。……そのまえは、しりません」


「その前は、どこにいた?」


「しろい、ところです」



「誰といた?」


「かぞえるひとです」


あの天幕の中で、筆を持っていた者は、この子のことを、一度も数に入れなかった。

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