第160話 数える者に、名は要りません
天幕の中は、暗くなかった。
灯りが無いのに、明るい。その出どころが、どこにも無かった。床に敷いた布の上に、影が1つも落ちていない。俺の影も、落ちていなかった。
18年前、白い回廊で、同じことが起きていた。
中にいたのは、1人だった。
座っている。膝を揃えて、その上に板を1枚載せている。板の上に紙が重ねてあって、右手に筆を持っていた。筆の先は、紙に触れないまま止まっていた。
顔を見て、目を離した。
顔はある。目も、鼻も、口もある。それなのに、次の瞬きで思い出せない。
こういう作りの者を、俺は知っている。数えるためだけに作られた者だ。天界では、名を持たない。持たせると、情が湧く。
「ヴァルゼードさま」
声が、した。
男の声とも、女の声とも取れる高さだった。
「お戻りでしたか」
「戻った」
「では、帳を直します」
その者は、筆の先を紙に下ろして、1行、何かを書いた。板の角を揃える。
「あんた、名は」
「ありません」
「じゃあ何て呼べばいい?」
「お好きなように」
俺は、天幕の入り口を背にして立っていた。グランは、外にいる。入ってこなかった。この天幕の中で起きることに、関わらないと決めている。
「18年前、回廊にいたな?」
「いました」
「後ろで、遅うございましたと言ったのは、あんたか」
「はい」
隠す気配の無い答え方だった。役所の窓口の返事だった。
「何が遅かったんだ?」
「用意が」
「輪のことか」
「はい。10、届くはずでした。届いたのは、9。1つ足りなかったので、あの日は、押さえの者を1人、余計に立てました」
18年前の回廊の右側を思い出した。あの日、俺の右に立っていた者が1人多かった。俺は気づいていて、見間違いだと思った。
見間違いではなかった。
「その足りねえ1つは、どこへ行った?」
「途中で、外れています」
「外れた?」
「運ぶ者が、手を滑らせました。落ちた先は、人の界の、北の海沿いです」
俺は、その言葉で、ラセルの井戸を思い出した。11ある井戸のうち、水の上がらない1つがあった。
「グランは、あんたを飼ってるのか」
「飼われてはいません。この砦で、数えています」
「何をだ?」
「出た者の数です」
その者は、板の上の紙を1枚めくった。下に、また紙があった。厚みが、拳の半分ほどある。
「20年前の秋から、こちらの界の数が合っていません」
その者は、めくった紙に目を落としたままだった。
「合わないまま置けば、上の帳と食い違います。……食い違いは、正さねばなりません。前の主とは、その話が付いていました。付いた話を、18年前の冬に、こちらから反故にしました」
「反故にした?」
「ヴァルゼードさまを、頂いたので」
俺は、一度息を吐いて、膝の後ろに力を入れ直した。この者の喋り方には、怒りが乗らない。
「俺1人で、帳尻が合ったのか」
「合いませんでした」
「なんでだ?」
「お逃げになったので」
「逃げてねえ。殺されたんだ」
「はい。ですが、そのあと、お戻りになっていません」
その者は、板の角をもう一度揃えた。
「渡す品が、渡された先で消えました。消えたものは、数に入りません。……上の帳では、いまも、こちらの界が1つ、足りない扱いです」
「その1つを、18年、誰が埋めてた?」
答えは、半分知っていた。それでも訊かないと、この者は喋らない。訊かれたことにしか答えない作りだ。
「そちらの、大きい方です」
「グランか」
「はい。年に幾つか、こちらへお出しになります」
「人をか」
「はい」
板の上で、筆の先がわずかに揺れた。
「何人だ」
「18年で、1100」
俺は、その数を、外で聞いていた。
グランが自分で言った数だ。おれの下で1100人死んだ、と言った。おれが決めて死なせた、と言った。
死なせた、と言った。
出した、とは言わなかった。
「そいつらは、どうなった?」
「数に入りました」
「生きてるのか」
「数に入っています」
2度、同じ答えが返ってきた。俺は、それ以上訊くのをやめた。この者は、生き死にを分ける欄を、そもそも帳に持っていない。
「グランは、俺を寄越せと言われてるな?」
「言っています。18年、毎冬、同じことを」
「あいつは、何て答えた」
「死んだ、と」
その者は、板の角をまた揃えた。
「18年、同じ答えでした。……今年は、違いました。今年は、生きているが渡さない、と仰いました」
俺は、天幕の布を見た。布の向こうに、外に立っている巨躯の影が映っていた。影は、動いていなかった。
「いつ言った?」
「18日前です」
18日前は、俺が広間の床に膝をついた日だった。
あの日、俺の帰還を知っていたのは城の中の者だけだ。城の中から、その日のうちに北の砦へ届く道は無い。それでも、届いている。
「誰が運んだ?」
「運ぶのは、上の者ではありません。……こちらの界のことは、こちらの界の者が言います」
「城に、あんたらの耳があるのか」
「耳とは、言いません。数えているだけです」
俺は、天幕を出ようとして、足を止めた。その者が、初めて訊かれずに喋った。
「ヴァルゼードさま」
「何だ?」
「1100を、お戻しになりますか」
「戻せるのか」
「戻せます」
俺は、振り返った。
その者は、まだ筆を持ったまま、紙の上の1行を見ていた。さっき書いた1行だ。
「数が合えば、戻せます。……こちらの界から、1つ足りません。足りない1つが埋まれば、上の帳は閉じます。閉じた帳の外に出たものは、こちらの好きにしてよいことになっています」
「足りない1つってのは」
「ヴァルゼードさまです」
俺は、その顔を見て、また思い出せなかった。その顔が俺を見返しながら、筆の先を、紙の上で止めている。
書く用意だけが、できていた。
「お決めになりますか」
「今日は決めねえ」
「では、いつ伺えばよろしいでしょう」
「あんたが数えとけ」
俺は、そう言って、幕を上げた。
外は、暗くなっていた。
2400が、篝を焚いている。火は、34あった。2400に対して、34は少ない。薪を惜しんでいる。
グランは、天幕の横の石に腰を下ろしていた。
俺が出てきても、立たなかった。
「聞いたか」
「全部な」
「なら、帰れ」
グランは、そう言った。
「おれは、お前を渡さん。18年、死んだと言い続けた。今年から、生きていると言った。……どちらのときも、こっちの数の出し方は、おれ1人で決めてきた」
「1100を、あんたが選んだのか」
「選んだ」
「どうやって」
「先の短い者からだ」
彼は、そう答えて、火の方を見た。その横顔の、火傷の側が、こちらを向いていた。
「グラン」
「何だ?」
「あんた、俺に戻れと言ったな」
「言った」
火の音が、2人の間に入った。薪が1本、折れた音だった。
「戻って、東を出せとも言った」
「言ったな」
「あれは、麦の話じゃねえな」
グランは、火の方を向いたきりだった。
「あんたが欲しいのは、出す数を決める役を、誰かに代わってもらうことだ」
グランは、そこで初めて、俺の方を見た。
石の上で膝に肘をついた。その腕の太さだけは、18年前と変わっていなかった。
「……倅を、3年前に出した」




