第159話 魔王に戻れ
紙の3行は、こう書いてあった。
『この者は、数に入っていない』
『渡れる者を1人、そちらへ回した。使い方は問わない』
『残りは、先の取り決めの通りに』
俺は、それをヴェルナに読んで聞かせた。
ヴェルナは、卓の端を掴んだ。指が、木に食い込んだ。18年、何を聞いても声の高さが変わらなかった女だ。
「……渡れる者が、北の砦におります」
「いるな」
「では、あの者たちは、界を越えて逃げられます」
「逃げる気なら、とっくに逃げてる」
ヴェルナの指が、卓の端から離れた。
「グランは、何が欲しいと思う」
「分かりません」
「18年前は、何を欲しがってた」
「前魔王家の、嫡流の座でございます」
ヴェルナの声は、もう元の高さに戻っていた。
「ですが、それは、もう残っておりません。嫡流は、ザルカ様の家に移りました」
北の砦までは、2日だった。
城の北の道を上ると、岩が増える。その間に、18年前に俺が積ませた石積みが残っていた。積み直してある。やった者は、俺の積み方を知っている。1段目を斜めに寝かせる積み方だ。
俺は、その石積みを指でなぞった。
指に、粉がついた。新しい。この1年で直している。
砦は、焼けていなかった。
18年前、ここは魔王軍の兵站の要だった。麦と、矢と、獣の飼葉を置く場所だ。城が焼けた冬にも、ここは無傷で残ったと聞いている。
門の前に、2400が並んでいた。
並び方が、ザルカのやり方とは逆だ。真ん中が厚く、両端が薄い。正面から突っ込むためだけの並びだった。
グランは、その真ん中に立っていた。
背が高い。俺より頭1つ高く、肩の幅が倍ある。両腕とも、同じだけ太い。片手で振る武器を使わない者の身体だ。実際、グランは戦鎚を使う。
髪は、灰色だ。18年前は黒かった。
顔の左半分に、火傷の跡があった。これも18年前には無かった。
「ヴァルゼード」
「あぁ」
「痩せたな」
「人間の身体だ」
「そうか。……なら、殴れば死ぬな」
門の前の2400から、鎧の擦れる音が一度だけした。
「死なねえよ」
「試してみるか?」
「あんたが呼んだんだろうが」
グランは、笑った。
喉の奥から出す、大きい笑い方だ。2400が、その声で少し動いた。笑いが始まるのを合図に、隊列を詰めている。
「何の用だ?」
「魔王に戻れ」
少しの間、意味を取り損ねた。グランが俺を呼んだ理由を、俺は3通り考えてきた。3通りとも外れていた。
「……いま、何て言った?」
「戻れと言った。……2度は言わん」
「あんた、俺を2度殺そうとしたな」
「した」
火傷の跡が、北の風に晒されて白く乾いていた。
「今度は担ぐのか」
「担ぐ」
恥じる色の無い答え方だった。
「18年、この界は腐った」
グランは、後ろの2400を顎で示した。
「前魔王家は、麦を配る家になった。……配るものが切れたら、それで終わる。ザルカは、西の3年分を1年で使った。次の冬に、何を出す」
「あるぞ。東に9000人分ある」
「それはお前のものだ」
「戻れ。戻って、東を出せ」
グランは、そう言った。
「お前が魔王に戻れば、東の1400と城の2200は動く。合わせて3600だ。おれの2400を足せば6000になる。6000で城下を押さえて、麦を1つの帳面にまとめる」
「まとめて、どうする?」
「お前が配る」
グランの言っていることが、ザルカの言っていることと同じだと気づいた。順番が違うだけだ。ザルカは配ってから取った。こちらは、取ってから配れと言っている。
「断る」
「何だと?」
「俺は、命じねえ」
グランの顔が、そこで止まった。
それから、火傷の無い右半分だけが、ゆっくりと動いた。
「……聞き違いか」
「東は俺が食わせる。西と城下はザルカだ。3年後に、生きてる数の多い方が取る。そう決めた」
「決めた、だと?」
「あぁ」
「誰とだ?」
「ザルカとだ」
2400が、そこで動いた。
今度は、隊列を詰めるのとは違う動きだった。後ろの方で、数人が同時に何か言った。聞き取れないまま、その声が前へ寄ってきた。
グランが、右手を上げた。
声が止まった。
「ヴァルゼード。おれは、18年待った」
「聞いてる」
「お前が死んだと聞いた日から、おれは、この砦を一度も明け渡していない」
「積み直したのは、あんたか?」
「おれの兵だ。……お前の積み方でやらせた」
俺は、その石積みを思い出した。
1段目を斜めに寝かせる積み方だ。18年前、俺が2度、やって見せた。1度目はグランの前で、2度目は東の領でだ。
「グラン」
「何だ?」
「あんた、俺の下につけ」
言った瞬間に、間違えたと分かった。
グランの顔が、変わらなかった。怒りもしない、笑いもしない。18年前、俺がこの巨躯に何かを命じたときに、いつもする顔だった。
グランは、戦鎚の柄を一度握り直してから、こう言った。
「お前は、変わっていないな」
「あぁ」
「さっき、命じないと言った」
「言った」
「その口で、おれには命じた」
俺は、返す言葉を探して、見つけられなかった。グランの言う通りだ。ザルカには命じなかった。ザルカは、命じられることを望んでいた。この砦の主も、同じことを望んでいるはずだった。
望んでいなかった。
「18年、この界で、お前の命令を待って死んだ者の数を言おうか」
グランの左手が、戦鎚の柄を握り直した。
「おれは数えていない。そういう役は、ネフィスだ。あの痩せた女に訊け。……おれが覚えているのは、待たずに死んだ者の分だけだ」
「何人だ?」
「おれの下で、1100人だ」
「その1100は、おれが決めて死なせた」
彼は、そう続けた。
「お前の名は、一度も出していない。……出せば、集まったはずだ。名代を名乗って麦を集めている連中がいるらしいな。おれは、やらなかった」
「なんでだ?」
「使えば、……おれはまた、待つ」
俺は、グランの18年を、初めて数に入れた。2度逃げた男だ。その先で、兵站の砦を1つ守り続け、2400を食わせて、1100を自分の判断で死なせた。
「グラン」
「まだ何かあるか」
「あんた、麦はどこから取ってる」
「北の3つの村だ」
グランの戦鎚の柄が、左手の下で少し傾いた。
「ロウグは入ってるか?」
「入っている」
あの村の6人の子供を思い出した。名簿の上で城下にいることになっている6人だ。あれを東へ下ろすのは、カルドの仕事になった。
「あの村から、去年、子供が6人出てる」
「聞いている」
「あんたが取ったのか?」
「おれは子供を取らん。……取ったのはザルカの名簿だ」
グランは、そう答えてから、自分の後ろを一度だけ見た。
後ろに、天幕が1つ張ってあった。
砦の門の内側だ。2400の隊列からは離れているのに、天幕の前には誰も立っていない。見張りがいないのは、中に入る者がいないという意味だ。
俺は、その天幕を見た。
幕が、内側から上がった。
上げたのは、手だった。
白い。人間の白さとは違う。血の色が下に無い白さだ。指が長く、爪が短い。その手は、幕を胸の高さまで上げて、そこで止まった。
顔は出てこないまま、幕の内側から、声がした。
「——遅うございました」
俺は、動かなかった。動けなかったのではない。動いたら、この声が引っ込むと思った。
《《18年前、白い回廊で、俺の後ろにいた誰かが、同じ言葉を使った》》。




