第157話 裏地に縫ってあったもの
子供は、跳ね橋から動かなかった。
伝言を渡したら帰れと言われているらしい。言われている通りにしようとして、向きだけ変えて、そこで止まっていた。北の道の先が、もう暗くなっている。
「泊まってけ」
「いえ」
「夜に歩くと、獣が出る」
「……存じています」
返事はしたが、動かなかった。ルシェが出てきて、子供の横を通り過ぎ、振り返らずにこう言った。
「厨房は、こちらです。麦を煮ております」
子供は、その背中を見たまま、息を3つするほど迷って、それから、ついていった。
城の厨房は、18年前の半分しか使っていない。
竈が8つあるうち、火が入っているのは2つだ。残りの6つは、灰も落としてある。使わないと決めた者が、きちんと片付けてから閉じた形だった。
ルシェは、その2つの前に子供を座らせた。
器に麦を掬い、上から水を足す。指を入れて、温度を見た。
「熱うございます」
「分かりました」
「息を吹いて、表面から召し上がってください」
子供は、器を両手で持ち、言われた通りに吹いた。吹き方が、慣れていた。熱いものを、毎日吹いて食っていた者の吹き方だ。
「名は?」
「ミトです」
「ミト。いくつですか?」
「8です」
麦の湯気が、子供の前髪を湿らせていた。
「グランのところに、何年いるのですか?」
「ずっとです」
ルシェは、それ以上訊かずに、自分の分を掬った。子供の隣ではなく、手元の見える向かいに座る。
俺は、戸口に立って、その2人を見ていた。
「陛下。お入りになりませんか」
「いや」
「麦は、ございます」
「後で食う」
ヴェルナが、廊下から来て俺の横に立った。厨房の中を一度見て、声を落とす。
「我が君。北の砦は、罠でございます」
「そうだろうな」
「グランは、前魔王家の武を預かっていた者の3番目でございます。18年前、我が君に2度挑んで、2度とも逃げております」
「覚えてる」
「その者が、いま、2400を持っております」
「多いな。数は間違いねえか?」
「東の1400と、城の2200を合わせても、動かせるのは1400でございます。……勝てません」
「1人で来いと言ってきてる」
「行かせません」
そう言ったのは、ヴェルナではなかった。
厨房の中から、ルシェが立ち上がっていた。器を持ったまま、こちらを向いていた。
「ルシェ殿。まだ何も決まっておりません」
「決まります。この方は、行くと仰います」
「行かれるなら、その間に東を固めます。穀倉の3つは、いま動かせません。ですが、種は、3日あれば南へ下ろせます」
「そういう話ではございません」
ルシェは、器を卓に置いた。その音が大きく、子供が肩を跳ねさせた。ルシェは一度動きを止め、子供の背中に手を置いてから、顔を上げた。
「ヴェルナ殿。あなたは、いつも、次の手を用意なさいます」
「用意しなければ、誰か死にます」
「あなたが用意なさるのは、この方が戻られなかったときの手でございます」
ヴェルナは、少しの間、袖の中で指を組み替えていた。
「認めます」
「……ずいぶん、あっさりと仰いますね」
「わたしは、18年、それだけをして参りました」
「あの方が戻られない場合の手を、毎年、作り直しました」
袖の中の指が、また組み替わった。
「作り直しませんと、待つことが……できませんでした」
「わたくしは、諦めておりません」
「存じております。あなたは、掃いておられました」
ルシェの右肩が、上がったまま止まった。この女の怒り方を、俺はもう3度見ている。3度とも、上がった肩が下りるまでに時間がかかった。
「掃いていた、と仰いましたか」
「申しました」
「では、伺います」
「あなたは、8年前に、わたくしを止めました」
ルシェの肩は、まだ下りていなかった。
「止めたとき、あなたは、こう仰いました。『渡れる者が城から出れば、あちらの数が動く』。……あの言葉は、正しゅうございました。ですが、あのとき、あなたはご存じでしたね」
「何をでございましょう」
「あの11通の中身を、読める者が1人もいないことを」
ヴェルナは、そこで顔を上げた。
「はい」
「読める者は、この界に1人しかおりません。その1人は、人間界におられました」
「左様でございます」
「では、なぜ、わたくしを止めたのですか?」
厨房が静かになって、子供が麦を吹く音だけが残った。この子は、話を聞いていない。聞かないようにしているのではなく、目の前の器の方が大事なのだと思う。
ヴェルナは、答える代わりに俺の方を一度見て、目をルシェへ戻した。
「あなたが死ぬからでございます」
「それだけですか?」
「それだけでございます」
「嘘でございます」
「嘘です」
ヴェルナは、そう言い直した。この女の声が、初めて平らでなくなった。
「……あなたが向こうへ着いて、我が君をお見つけになった場合、わたしは、18年、間違った待ち方をしていたことになります」
俺は、戸口から動かず、2人の間に入らなかった。18年前なら、ここで俺が決めて、2人とも黙らせていた。そのせいで、この2人は18年、一度もこの話をしなかった。
ルシェは、ヴェルナを見たまま、座った。
「ヴェルナ殿」
「伺います」
「わたくしは、あなたを、ずっと羨んでおりました」
彼女は、そう言った。
「あなたには、読めない紙が11通ございました。わたくしには、掃く床しかございませんでした」
ヴェルナは、答えを返さずに厨房へ入ってきた。竈の前で立ち止まり、手を火の方へ出す。この女が火に手を出すのを、俺は初めて見た。
「……冷えております」
「この城は、冷えます。18年、そうでございました」
そのとき、子供が器を置いた。
両手で口を拭って、立ち上がる。その拍子に、外套の裾が卓の角に引っかかって、内側が捲れた。
俺は、そこで動いた。
「動くな」
子供が、止まった。俺は、その外套の裾を掴んで、内側を裏返した。裏地の、腰のあたりだ。縫い付けてあるものがある。
紙だった。
薄いのに、透けない。指で摘んでも、皺にならなかった。
俺は、その紙を縫い目ごと引き千切って、開いた。字が3行あった。細い字だ。線の終わりが、止めずに抜いてある。
「ミト」
「なんでしょうか?」
「これは、誰に縫ってもらった?」
「……グラン様の、お客様です」
摘んだ紙の端に、縫い糸が1本残っていた。
「客の顔は?」
「見ておりません。いつも、夜に来ます」
子供は、そう答えてから、初めて、器の方ではなく俺の顔を見た。8つの子供の目だった。
「あの、いけないことでしたか?」




