第156話 腿の半ばまで
中庭は、石を敷いてある。
敷石の間に、黒い苔が入り込んでいた。18年前は、毎日、誰かが擦っていて、ここに苔は無かった。いまは、真ん中の通り道だけが、石の色をしている。
ルシェは、その通り道の端を掃いていた。俺が降りていっても、箒を止めなかった。
「陛下」
「あぁ」
「お戻りでございましたか」
「昨日の昼にな」
「存じております。門の者から聞きました」
俺は、その手元に紙を出した。
4通目の裏だ。写しではない。現物を持ってきた。円が1つと、線が9本。9本目が途中で切れている。
ルシェの箒が止まって、そのまま下がらなかった。柄を握った手の、指の付け根が白くなった。
「8年前に、これを見たな」
「見ました」
「ヴェルナから聞いたか」
「あの方が、お見せになりました」
「そのとき、何を思った?」
ルシェは、答えずに、箒を壁に立てかけて、両手を前で合わせた。その手が、袖の中に入らなかった。この女が袖に手を入れないのは、魔法を組む気が無いという意味だ。
「陛下。順を、逆から申し上げます」
「あぁ」
「わたくしは、8年前に、この城から出ようとしました」
「どこへだ?」
「人間界でございます」
この女の足のことを、初めて数に入れた。18年、城を出なかった女。乗るのは痛くないが、歩くのは痛い足。治らないと言い続けている足。
「渡れるのか?」
「渡れません」
「じゃあ、どうやって出るつもりだった?」
「渡れる者を、1人だけ知っておりました」
ルシェは、門の方へ目をやった。
「城下の、鍛冶をしていた老人でございます。年は80を過ぎておりました。若い頃に一度だけ渡ったことがあると、酒場で話しておりました」
「使ったのか?」
「使いました。……銀を全部、渡しました」
「開いたのか?」
「開きました。半分だけ」
彼女は、合わせていた両手を、少しだけ開いてみせた。
「大きさが、拳2つ分でございます。中に、白いものが見えました。あの老人は、あれは人間界の空の雲だと申しました」
「入ったのか?」
「入りました。右足から」
俺は、そこで目を閉じて、開けた。18年前、俺は次元魔法の失敗を何度も見ている。半分開いた穴に身体を入れると、入れた分だけが向こうの空気に晒される。残りは、こちらに置いたままになる。
「閉じたな」
「閉じました」
「どこまで入ってた?」
「腿の半ばまででございます」
「足は?」
「付いております。付いておりますが、中が繋がっておりません」
ルシェの答え方は、報告の調子だった。18年、この女は、自分のことをこの調子でしか喋れなくなっている。
「歩けば痛みます。乗れば痛みません。……走ることは、もうございません」
「その老人は?」
「その場で死にました」
「渡れる者が、1人減ったな」
「はい。……天の帳面で、その年、この界の数が1つ動いております」
彼女は、そう言ってから、初めて、俺の顔を見た。
「ヴェルナ殿に、止められました」
「止めた理由は?」
「渡れる者が城から出れば、あちらの数が動く。動けば、城が見られる。……そう仰いました」
「正しいな」
「正しゅうございます」
ルシェは、そう言って、少し笑った。ヴェルナの前で見せたのと同じ笑い方だった。目だけが細くなって、口の形が変わらない。
「正しいことを、8年、聞かされております」
「陛下。8年前のあの日、わたくしは、腿の半ばまで人間界に入っておりました」
彼女は、そう続けた。
「あちらの空気は、こちらより薄うございます。匂いが違いました。焼いた麦の匂いがいたしました。……近くに、人が住んでおりました」
「そうだろうな」
「その匂いの中に、陛下がおられました」
言えることが、1つも無かった。8年前、俺は北の穴の底にいた。焼いた麦の匂いのする場所には、いなかった。だが、そう言っても意味が無い。
「悪かった」
「またでございます」
ルシェは、そう言った。
「陛下は、お戻りになってから、2度、その言葉をお使いになりました。……2度とも、わたくしは楽になっておりません」
「じゃあ、何を言えばいい?」
「お訊きになりますか?」
「訊いてる」
「では、申し上げます。……何も仰らずに、一度、わたくしの足をご覧になってください」
俺は、そこでしゃがんで、右足を見た。外套の裾に隠れている。裾は持ち上げずに、履き物の位置を見た。
右の靴だけが、爪先の内側が磨り減っている。
外へ蹴り出す歩き方だ。痛みを避けて、8年、そう歩いてきた者の減り方だった。
「そっちに体重を掛けねえ歩き方をしてるな」
「掛けますと、膝から抜けます」
「城の階段は、右回りだ。あんたの足には、逆だ」
ルシェの手が、立てかけた箒の柄に伸びかけて、戻った。
「……はい」
「なんで直さなかった?」
「直しますと、忘れます」
俺は、しゃがんだまま、敷石の苔を見ていた。18年分の苔だ。真ん中の3尺だけが、石の色をしている。
「ルシェ」
「伺います」
「掃く幅を、広げろ」
「……いま、何と」
「端まで掃け。1人じゃ足りねえなら、人を入れろ。この城に、これから人が増える」
ルシェは、口を開いて、何も言わずに閉じた。それから、壁に立てかけた箒を取って、柄を両手で握った。
手が、震えていた。
そこへ、ヴェルナが降りてきて、中庭の入口で足を止めた。
「我が君。門に、使者が参っております」
「どこの?」
「旗は、前魔王家の印でございます。線が、3本でございます」
「残党か」
「そのように名乗っております」
「何人だ?」
「1人でございます」
ヴェルナは、そう答えてから、少しだけ、声を落とした。
「……我が君。ひとつ、先に申し上げておきます」
「あぁ」
「使者は、子供でございます」
門へ出た。跳ね橋の上に、その子は1人で立っていた。背丈が俺の腰までしかない。歳は、7つか8つだ。髪が肩まであって、前で切り揃えてある。真っ直ぐな切り口で、切り慣れた者の手だと分かった。
外套が、大きすぎた。袖を折り返して、それでも指が半分隠れている。
その子が、旗を持っていた。布ではなく、板だ。線を3本重ねた印が焼き付けてあって、その下に、細かい傷が10ほど並んでいた。
子供は、俺を見上げて、両手で板を差し出した。
「あなたが、ヴァルゼード様ですか?」
高い。まだ喉ができていない声だ。だが、喋り方が、子供の喋り方ではなかった。間の取り方が、大人のものだった。
「そうだ」
「では、伝えます」
「グラン様が、お待ちです」
子供は、一度、息を継いだ。
「北の砦で、お待ちです。お1人でお越しください。……お越しにならない場合は、東の町の穀倉を、3つとも焼きます」
「その伝言、誰に教わった?」
「グラン様です」
「あんたの親は?」
「おりません」
子供は、そう答えて、板を差し出したまま、腕を下げなかった。受け取られるまで下ろすなと言われている者の持ち方だった。
俺が板を受け取って、子供の腕は、やっと下りた。
《《下がった腕が、そのまま震えていた》》。




