第155話 ヴァルゼードを
城に戻るのに、5日かかった。
行きは遠回りをして、帰りは最短の道を通った。それでも、途中の宿場で、ヴェルナが2度、獣を止めた。宿場の主に麦の値を訊いては、帳面に書いていた。
「値を知って、どうする?」
「東から麦を出す道を、いま作っております」
城下は、出たときと同じだった。
戸が開く時刻も、竈の煙の色も、同じだ。違うのは、広場の台座の前に、人が3人立っていたことだった。3人とも、台座に彫られた名の方を向いている。
だが、彫った字を読んでいる顔ではなかった。
その足元の、前の台座を埋めた跡の方を見ていた。
ヴェルナの部屋は、城の3階の北側にある。
北向きの、暗い部屋だ。18年前、この女は「読むのに明るさは要りません」と言って、この部屋を選んだ。卓が1つ、棚が2つ、寝床が1つ。棚には何も載っていない。
「11通は、どこだ」
「そこに、お立ちいただけますか」
俺が立った場所の、右足の下だった。
ヴェルナは、膝をついて、床板の端に爪を入れ、板を1枚、持ち上げた。その下から、油紙の包みが出てきた。
包みは、四角い。角が擦り切れている。18年、何度も出し入れした者の擦り切らせ方だった。
「何度、開けた?」
「数えておりません」
「嘘だな」
「……1104回でございます」
彼女は、そう答えて、包みの紐を解き、卓の上に書状を並べた。
11通。
4通は、魔界の字だ。折り方が四つ折りで、宛名の面に前魔王家の印が押してある。この4通は、俺が18年前に東の棚で読んだものと同じ種類だ。
残りの7通は、違った。紙が薄いのに、透けない。指で捻っても皺にならなかった。
俺は、その1通を持ち上げて、光の方へ向けた。紙の中に、繊維の走りが無い。植物から作った紙とは違う。
「これは、どこで拾った?」
「あの冬、東の棚が焼けたあとの灰の中でございます」
「灰の中で、燃えてなかったのか?」
「燃えませんでした」
俺は、その1通を開いた。字があった。
細い。線の終わりを、止めずに抜いて、次の字の始まりへ繋げてある。魔界の字は、この繋がりを切って、1字ずつ独立させたものだ。その跡が、横棒の落ちた形として残る。
18年前に、俺は同じ字を、白い回廊の壁で見ている。
「読めますか?」
「読める」
「……では、わたしは、下へ参ります」
ヴェルナが、戸の方へ歩きかけた。俺は、その背中を呼び止めた。
「残れ」
「わたしは、読めません」
「読める必要はねえ。聞いてろ」
ヴェルナは、そこで戻ってきて、卓の横に立った。18年前、この女が俺の言葉を待つときの姿勢だった。
俺は、1通目を読んだ。
『数が合わない。そちらの申告と、こちらの数えた数が、3つ違う。3つは、どこへ行ったか』
日付は、20年前の秋だ。
2通目を開いた。
『3つのうち2つは見つかった。残る1つは、そちらで始末せよ。始末できぬのであれば、こちらで数から外す。外された者がどうなるかは、前に伝えた通りである』
「ヴェルナ」
「はい」
「20年前の秋に、この界から誰かが消えたか?」
「消えております」
彼女の返事は、早かった。
「20年前の秋に3人、その年の冬に1人。4人とも、界を渡れる者でございました。……当時は、前魔王家の粛清だと思われておりました」
「思われてた、な」
「わたしも、そう思っておりました。いまのいままで」
3通目から6通目までは、数の話だった。
こちらに何人いて、そちらに何人いる。渡れる者を何人まで許すか。許した数を超えたときに、どちらが減らすか。
読んでいて、腹の底が冷たくなった。
書いてある中身より、書き方の方だ。この6通には、一度も、脅す言葉が出てこない。
台帳だ。数が合わない、と言っている。合わせろ、と言っている。合わないまま置いておくことを、この書き手は、不正だと思っている。
人が消えることを、帳尻と呼んでいる。
「ヴェルナ。天の連中は、この界を敵だと思ってねえ」
「では、何だと?」
「棚だ」
7通目は、他の6通と違った。
紙が同じで、字も同じだ。違うのは、速さだ。線の抜き方が、荒い。書いた者が、途中で一度、筆を置いて、また持ち直している。
日付は、18年前の冬。俺が死んだ月だった。
『こちらの用意は済んだ。
そちらへ渡す分は、先に渡した。輪を10、確かに受け取ったはずである。あれは人に使うものではないが、そちらの使い方までは問わない。
こちらが受け取るものを、次に送れ。
——ヴァルゼードを』
俺は、その1行を3度読んでから、紙を卓に置いた。その手が、思った通りに動かなかった。指の先が、卓の木目の上で、一度、跳ねた。
ヴェルナは、その手を見ていたが、口は開かなかった。
「ヴェルナ」
「はい」
「これを、18年、床の下に置いてたのか?」
「置いておりました」
「読めねえのに」
「読めませんでした。……ですが、最後の1通に、我が君の名がございます。天界の字でも、名は形が変わりませんので」
この女が18年何をしていたのかを、もう一度、頭の中で並べ直した。
帰還を信じて調べ続けた。鎖を売って麦を買った。教団を残した。城の帳面を守った。——その全部の下に、この1行があった。1104回開けて、1104回、この1行を見ている。
「なんで、焼かなかった?」
「焼きますと、無かったことになります」
彼女は、そう答えた。
「わたしは、18年、我が君が生きておられると申し上げて参りました。誰も信じません。信じない者に、証拠を出せと言われます。……出すものが、この11通しかございませんでした」
「出したのか?」
「出しておりません」
「なんでだ?」
「読める者に読ませますと、この1行が読まれます」
ヴェルナの目が、卓の上の7通目へ行った。
「我が君のお名前が、この界から出す品として書かれております。……それを読んだ者は、探さなくなります」
俺は、椅子に座って、7通を日付の順に並べ直した。20年前の秋から、18年前の冬まで。間が、2年と少し。
2年で、この界から4人が消えている。
消した側の名は、どこにも書いていない。この字を書いた者は、名を必要としない立場にいる。
「印は、あるか?」
「4通目の裏に、ございます」
俺は、4通目を裏返した。裏の下の端に、押した跡があった。墨とは違う。紙そのものを、焼いて凹ませてある。形は、円が1つと、その中に線が9本。
9本目だけ、途中で切れていた。
俺は、その印を見て、人間界で聞いた話を思い出した。ソルディア聖国には、空席の座が1つある。名を記すことを禁じられている、9番目の座だと聞いた。
その話をしたのは、石の谷のリディアだった。肘の内側に6本の線を持つエルマの、娘だ。
「ヴェルナ」
「承知いたしました」
「まだ何も言ってねえぞ」
「お顔で分かります」
ヴェルナは、並べた7通の端を、指で揃えた。
「この印を、城の誰かに見せたか?」
「1人だけ、お見せしました」
「誰だ」
「ルシェでございます」
「いつだ?」
「8年前でございます。……我が君が生きておられると、あの者に申し上げた日でございます」
俺は、階下を見た。窓の下に、城の中庭がある。中庭の端を、銀髪の女が箒を持って歩いていた。
「あいつは、何て言った?」
「何も仰いませんでした」
ヴェルナも、窓の下を見た。
「ただ、その日から、廊下を掃く場所が変わりました。……それまでは端まで掃いておられましたのに、真ん中の3尺だけになりました」
俺が歩く幅だけを、8年、掃いていた。




