第151話 空の箱
その晩、館の2階に、4人で集まった。
卓は、楢の1枚板だ。書き物のために作った卓で、硯の置き場所だけ、漆が剥げて白くなっている。ネフィスが、その白くなった場所の前に座った。18年、毎晩そこに座っていた者の座り方だった。
俺は、向かいに座った。ヴェルナが右、ルシェが左だ。18年前、書状を読ませるときに、俺がそう並べさせた席だった。
違うのは、卓の上だ。
昔は、この並びで座ると、卓に書状が積んであった。今夜あるのは、水の入った壺が1つと、欠けた器が4つ。それだけだ。
ネフィスが、その器に水を注いで、俺、ヴェルナ、ルシェ、自分の順に置いた。18年前と同じ順だった。
「では、報告をいたします」
18年空いたことには触れずに、ネフィスは続きから始めた。
「東の領、1万1000。冬を越せるのは9000。残る2000のうち、1200は北の3つの村で、こちらは冬の前に南へ下ろします。800は、下ろしても死にます」
「なんでだ?」
「年寄りでございます」
「歩けねえのか」
「歩けますが、下ろした先で、若い者の食う分を減らします。……あの者たちは、それが分かりますので、動きません」
ネフィスは、水を一口飲んで、静かに器を置いた。
「次に、兵でございます」
「あるのか」
「1400ございます。ただし、そのうち900は、ザルカ様の名簿に載っております」
「東の兵が、あっちの帳面に載ってるのか?」
「載せました。載せておきませんと、麦が回りませんので」
俺は、指で卓を叩きながら、18年前の東の兵の数を思い出した。6000だ。それを、この女に預けて、俺は人間界の底へ落ちた。
「6000が、1400か?」
「はい」
「残りは」
「半分は死に、半分は西と城下へ移りました。残った1400も、ふだんは鍬を持っております」
俺は、右を見た。
「ヴェルナ。城の兵は」
「2200でございます」
「東の帳面には」
「載っておりません。城の兵は、城の帳面にしか載りません」
ヴェルナは、そう答えてから、ネフィスの方を見た。
「ですが、2200のうち、1300は、ザルカ様の縁の者が隊長でございます。命じましても、動くまでに、必ず一度、城下へ使いが出ます」
「使いが出て、どうなる?」
「その日のうちに、ザルカ様がご存じになります」
卓が、静かになった。
そこへ、ルシェが器を置いた。その音が、他の3人が置いたときより大きかった。
「それは、いつからですか?」
訊いた相手は、俺ではなく、ヴェルナだった。
「4年前からでございます」
「4年前」
「はい」
「わたくしは、聞いておりません」
「申し上げておりません」
ヴェルナの答え方は、いつもと同じだった。それが、悪かった。
ルシェの右肩が上がって、そのまま下りなかった。怒ると肩が上がる。弟と同じ癖だ。
「ヴェルナ殿。わたくしは、18年、あの城におりました」
「存じております」
「わたくしは、城の兵が動くたびにザルカ様へ使いが出ていたことを、何一つ存じません。……いま、この卓で、初めて伺っております」
ヴェルナは、少しの間、自分の器の縁を見ていた。それから、顔を上げた。
「申し上げますと、あなたは止めました」
「止めません」
「止めます。……あなたは、城のものを外へ出すことを、18年、一度もお許しになりませんでした」
「あれは、お帰りになったときに、城が空だと困るからです」
ルシェの声が、上がって、平らになっていた。
「柱が焦げております。鎖が1本しかございません。絵は焼けました。……わたくしは、残ったものを数えて、それが減らないようにしておりました。それが、間違いでございますか?」
ヴェルナは、卓の板を見たまま、こう答えた。
「間違いではございません。……ですが、東の村は」
ルシェが立ち上がり、卓に手をついた。その手の下で器が倒れ、水が楢の板の上へ広がって、硯の置き場所の白いところで止まった。
「わたくしが生かしたのは、この方の帰る場所でございます」
「その場所に、6年前の冬、麦はございましたか?」
「——ございません」
ネフィスが、口を開こうとして、やめた。ルシェが、彼女の方を見ていた。
ネフィスは口を閉じて、卓の上の水を布で拭いた。慣れた手つきだった。この館では、この卓の上で、何度も同じことが起きている。
俺は、口を開いた。
遅かったのだと思う。
「ルシェ。あんたは、城にいた。無駄じゃねえ」
言った瞬間に、部屋の空気が変わった。
ルシェが、俺を見て目を細めた。笑っている形の目だった。この女が笑うのを、俺は18年前も、片手で足りるほどしか見ていない。
「陛下。いま、秤に掛けられましたか」
「掛けてねえ」
「無駄ではない、と仰いました」
俺は、言い直そうとしたが、次の言葉が出てこなかった。人間界で18年かけて覚えた喋り方は、ここでは1つも使えなかった。あそこで俺の言葉を拾ってくれた連中は、拾うのが上手かっただけだ。
「そうじゃねえ」
「では、何でございましょう?」
「……あんたが城にいたから、俺は城に帰れた」
「帰れました」
ルシェの指が、さっき置いた器の縁にかかった。
「帰れましたが、城には何もございませんでした。柱も、鎖も、絵も、人も。……わたくしが18年守ったのは、空の箱でございます」
彼女は、一度、息を吸った。
「その箱の中で、わたくしは、毎日、埃を払っておりました」
城で聞いた言葉を、思い出した。積もったらどうなると訊いたときに、この女は「いなくなったことになります」と答えた。
あれは、部屋の話ではなかった。
「弟が、名を使いました」
ルシェは、そう言った。
「わたくしが城で埃を払っている間に、弟は外で、あの方の名を使って、取り立てておりました。取り立てた麦で、村の者は冬を越しました。……ヴェルナ殿のやったことと、どこが違いますか?」
「違いません」
ヴェルナは、そう答えて、卓に置いた手を、膝の上へ下ろした。
「わたしも、盗みました」
ヴェルナは、膝の上で手を重ねた。
「鎖を3本、勝手に売りました。売った金で、東の領の麦を2年分買いました。買った麦を、ネフィス殿へ送りました。……送った先は、我が君に申し上げておりません」
俺は、そこで初めて、鎖3本の行き先を聞いた。城では、東の麦が2年分になったとしか聞いていない。
「あの2年分は、あんたの金だったのか?」
「城のものでございます」
「城のもんを売って、東へ流したんだろうが」
「流しました」
ヴェルナの指が、膝の上で袖口を揃えた。
「ザルカに知れたら、どうなった?」
「わたしの首が、城下の台座に載ったかと存じます」
ルシェが座り直して、倒れた器を起こした。
「……わたくしにも、言ってくださればよかった」
「申し上げれば、あなたは一緒に盗みました」
「盗みます」
「ですから、申し上げませんでした」
ルシェは、卓を見ていた。やがて立ち上がって、部屋を出ていった。戸は、閉めなかった。
開いたままの戸から、廊下の冷たい空気が入ってきた。
《《怒っていない、と言った日から、7日が経っていた》》。
ネフィスが、水を拭いた布を畳んで卓の端に置き、俺の方を見た。
「我が主。ひとつ、伺ってよろしいですか」
「あぁ」
「あの方を、追われますか?」
俺は、開いた戸を見て、椅子から立ち上がりかけた。
そこで、廊下の先から、人の走る音が聞こえた。
走ってきたのは、館の兵だった。息が上がっていて、戸の前で足を止めるのに、板を2歩ぶん滑った。
「ネフィス様。門の者が、参りました」
「何かありましたか?」
「客人が1人、夜のうちに出ていったそうでございます。北の道でございます」
「名は」
「カルド、と名乗っておりました」
俺を見たネフィスの顔に、初めて、慌てた色が出た。
「北の道は、ロウグ村へ参ります」
「6人のところへ行ったな」
「そのようでございます。……名簿の上で城下にいる子を6人、村から出しますと、東の帳面が、明日、ザルカ様の帳面と合わなくなります」




