第147話 留守は、預かっています
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穴は、ゼノが跨いだ17拍後に閉じた。
数えていたのは、ミルカだ。閉じたあと、彼女は紙にその数を書いて、それから羽根ペンを置いて、井戸の底の石の上に座り込んだ。
誰も、彼女を上げに行かなかった。その場の誰にも、そこまでの力が残っていなかった。縄の端は、縁に掛かったままだった。
3日目から、リィナが毎朝井戸へ下りるようになった。
石に掌を当てて、20を数えてから、上がる。それだけのことを、誰にも言わずに始めた。3日目の朝は、まだ暗いうちに下りた。
4日目に、ミルカが下りてきた。
「リィナさん。何をしていますか?」
「温度です」
ミルカは、その横にしゃがんで、自分も掌を当てて、長いことそのままでいた。
「……温かいです」
リィナが、うなずいた。
「昨日より、少しだけ低いです」
「そうですか」
ミルカは、それだけ言った。
その日から、ミルカが帳面に書き始めた。
石の温度を、朝と夜に2度。温度を測る器具は無い。だから、掌を当てて、20を数える間にどう感じたかを書いた。
『朝。水より温かい。掌の中心だけ』
『夜。縁が冷たい。中心は、朝と同じ』
書きながら、ミルカは自分の手を見た。
器の4分の1を失った手だ。魔法は使えないが、書ける。ゼノが渡ってから9日目で、書いた紙は6日分になっていた。
9日で、温度は下がっていた。
底まで冷えたら何が起きるのかを、この場にいる誰も知らない。
砦の再建は、7日目に始まった。
言い出したのは、エリシアだ。彼女は王都へ戻らずに、焼け跡に机を1つ置いて、そこで書き続けている。机の脚の1本が短く、下に石を噛ませてある。
書いているのは、命令ではない。
頼みだ。ヴァリス王国の各領へ、石と、鉄と、人を出してほしいという手紙を、1通ずつ宛名を変えて書いている。
手紙にしなかった頼みが、1つだけある。前線の指揮だ。エリシアは、それを井戸から上がってきたリィナに、口で頼んだ。
机の横から、フィーネが言った。
「エリシア様。判を押すだけの文にされてはいかがですか」
「同じ文にいたしますと、同じ返事が参ります」
エリシアは、そう答えた。
フィーネは、自分の指を擦り合わせていた。器の4分の1を失ってから、指先が冷えて、炭が持ちにくい。
「……あなた、変わりましたわね」
「そうでしょうか」
「以前は、正しい文をお書きになりましたのよ」
10日目に、グレイグが来た。
ローデン砦の砦将だ。生き残った兵は、271人のうち59人。その59人を連れて、焼けた門の跡に立った。左のこめかみの白いところが、前より広がっている。
グレイグは、門の蝶番を見た。
闇魔法で埋めた隙間が、まだ残っている。ゼノが死ねば消えると言った闇だ。消えていない。
「……鉄が、鳴らんな」
グレイグは、そう言って、部下の方を向いた。
「西の門から直す。石を運べる者は前へ出ろ。運べん者は、飯の支度をしろ。どちらもできん者は、名簿を書け」
59人が、動いた。
その様子を見ているリィナの隣に、ヴィントが来た。杖を突いている。馬で腰を痛めたらしい。王都から来て、3日目だ。図面を抱えている。
「おい」
「はい」
「お前、エリシア様に前線の指揮を頼まれたそうだな」
「頼まれました」
「断らんのか?」
リィナは、少し考えた。
「断ると、代わりの人がやります」
「そうだ」
「代わりの人が、わたしより上手だったら、断ります」
「……上手でなかったら?」
「わたしがやります」
ヴィントは、その顔をしばらく見てから、図面を地面に広げて、石で四隅を押さえた。
「東の山だ」
リィナが、図面の横にしゃがんだ。
「聖国の第4軍の頭が、2200のうち1700を連れて山へ入った。そいつが、停戦の命令を蹴った」
「ノルディスという男だ。50過ぎで、左の耳が無い」
「こちらの斥候が3人行って、2人しか帰ってこん。帰った2人が言うには、あの連中は山で兵を集めている。……集めた数が、もう2400だ」
「増えています」
「増えている。神託絶対派と呼ばれているらしい」
「何を待っているのですか?」
「分からん。だが、動く先は分かっている」
ヴィントは、図面の一点を指した。
焼けた砦の、中庭の井戸だ。
「ここだ。……あの連中は、ゼノがどこから出ていったかを知っている」
リィナは、その指の先を見た。
「壊されると、どうなりますか?」
「知らん。わたしが知らんことは、あの娘が知っている」
ヴィントは、そう言って、顎で幕の方を指した。
幕の下に、アステリアが座っていた。
アステリアは、リディアと向かい合っていた。
2人の間に、紙が10枚ほど並んでいる。並べた紙に、線が引いてある。天界の4本と、ネイアの押さえだ。
「壊されますと、戻れません」
「戻る場所が、この石だからです。あの方の魂の座標は、ここに焼きついています。……割れますと、座標が消えます」
「別の場所は?」
「作れません」
「本当に、作れないのか?」
「作るには、あの方がもう一度こちらへ渡る必要があります。渡るための場所が、この石です」
リディアが、包帯の手で自分の膝を叩いた。
「……つまり、この石が割れたら、あいつは向こうに閉じ込められる」
「はい」
その夜、ポーラが鍋を4つ掛けた。
59人の兵と、子供が11人と、ラセルから来た者と、王都から来た者。人が増えたので、鍋を増やした。それでも足りないので、スープを薄くした。麦を炒ってから入れると、薄くても匂いが立つ。
薄くした分、塩を強くした。
「ポーラさん。薄いのに、味がします」
「塩は、薄いときほど効くんだよ」
リィナは、その椀を持って、井戸の縁に座った。
飲みながら、下を見た。暗くて、石は見えない。
彼女は縁に手を置いて、こう言った。
「留守は、預かっています」
返事は、無かった。
分かっていて言ったので、恥ずかしくはなかった。それでも、言ったあとに、椀の中を見た。
少し笑ってから、残りを全部飲んだ。
アステリアは、その夜、幕の外に出て、空を見ていた。焼けた砦の空だ。星が出ている。人間界の星は、天界から見る星と、位置が違う。18年見ていても、まだ見慣れない並びだった。
彼女は、その並びを見て、眉の端を下げた。
「どうした?」
ヴィントが、後ろから声をかけた。
アステリアは、振り返らずに答えた。
「……3つ、動きました」
「星がか」
「星ではありません。上を通った者が3人、星を隠しました」




