第146話 台座に彫られた名
魔界に、朝は無い。
空はいつも赤黒い。明るくなる代わりに、城の鐘が6つ鳴る。それで、その日が始まる。18年、誰かが毎日6つ鳴らしてきたということだ。
6つ目が鳴り終わる前に、ヴェルナが部屋の前に立っていた。
外套を着替えている。昨日のより、丈が短い。歩くための丈だ。
「城下へ出る」
「承知いたしました」
「止めねえのか」
「止めても、お出になります」
彼女は、外套の内から紙の束を出した。指2本分の厚さがあった。
「18年分でございます」
「全部読むのか」
「歩きながら、要るところだけ申し上げます」
「読み上げてよろしいですか。……途中で、お止めください」
城の門を出ると、坂だ。
坂の両側に、家が積んである。石と、焼いた土と、梁に使った骨だ。魔界の家は、上へ積む。地面が足りないからとは違う。下の方が寒いからだ。
坂の上に立つと、灯りの数が分かる。窓のいくつに火が入っているかが、上からだと一目で見える。
18年前は、数えなかった。数える必要が無かった。今は、数えられた。
「灯りが減ってる」
「4割でございます」
「4割減ったのか?」
「4割に、なりました」
ヴェルナは、紙をめくらなかった。
「油でございます。油は東の領から参ります。東が止まると、灯りが止まります」
「止めたのは誰だ?」
「止めてはおりません。値が上がりました」
「同じことだろうが」
「同じでございます。ですが、止めたと申しますと、こちらから兵を出す話になります」
彼女は、一度、足を止めて、俺の半歩後ろに戻ってから、続けた。
「18年、わたしはその言い方を避けて参りました」
「避けて、どうなった?」
「灯りが4割になりました」
坂の途中に、水場があった。
石を刳って作った桶が3つ。1つは空で、底に藻の跡が輪になって残っている。残り2つに、女が並んでいる。みんな、背が低い。子供の列とは違う。この界の女は、たいてい小さい。
その列が、俺を見たまま、誰も動かなかった。
「あの人は、どなた」
列の後ろの方で、そう言った声がした。
若い声だ。この18年のうちに生まれた者の声だった。
前の方にいた年寄りが、その若いのの袖を引いて、何か言った。若いのは口を閉じたが、下を向かなかった。
見覚えのある顔つきだった。聖国の使節の後ろに立っていた若い神官が、同じ顔をしていた。知らないものを見て、知らないと言える顔だ。
俺が、その列の前を通り過ぎるとき、年寄りの方が膝をついた。若いのは、ついた者を見て、一拍遅れて真似をした。
「ヴェルナ」
「はい」
「あの若えのは、俺を知らねえな」
「知りません」
坂の下から、焼いた土の匂いが上がってきた。
「18年で、そこまで消えるか」
「18年で、あの者は生まれました」
「年寄りには、18年は短うございます。ですが、その間に生まれた者には、それが全部でございます。……あの者にとって、我が君は、生まれる前の話でございます」
俺は、坂を下りながら、人間界の18年を思い出した。俺が這い上がるのに使った18年が、この界では、誰かの一生分だった。
広場に出た。
城下でいちばん広い場所だ。市が立つはずだが、店が5つしか出ていない。売っているのは、干した肉と、籠と、鉄屑だ。肉の匂いが、風下の方だけに溜まっていた。
広場の真ん中に、台座がある。
俺の像が立っていた場所だ。
像は、無かった。
台座だけが残っている。高さは俺の腰ほどで、角がまだ尖っている。上の面が平らに削ってある。像を倒したのではない。台座ごと作り直してある。
その平らな面に、字が彫ってあった。
魔界文字だ。名前だった。
『ザルカ』
俺は、その字を見た。読むのに、手間はかからなかった。
「誰だ」
「前の王の、弟の子でございます」
「18年前、あなた様が王を倒されたとき、13でした。今は31です」
「ここに彫ったのは、あいつか」
「城下の者でございます」
「城下が、自分で彫ったのか」
「彫りました」
感情を抜いた言い方だった。
「6年前の冬に、東からの麦が3か月止まりました。城の蔵を全部出しましたが、足りませんでした。……そのとき、ザルカが自分の領の麦を、この広場で配りました」
「何人分だ?」
「4000人分でございます」
「城は」
「1100人分しか出せませんでした」
俺は、台座に手を置いた。
石が冷たい。彫った字の溝に、指が入る。深い。時間をかけて彫ったものだ。1日では彫れない。鑿の当たり方が場所で違うので、何人かが交代で彫っている。
「あんたは、これを見てたのか」
「彫られるところを、端で見ておりました」
「止めなかったのか」
「止めませんでした」
「なんでだ?」
「4000人分を配った者の名を削ると、削った側が悪くなります」
「わたしは、あなた様がお戻りになったときに、この城下が敵に回っていることを避けたいと考えました。……ですので、彫らせました」
「彫らせた」
「はい。石工に、こちらから金を出しました」
俺は、ヴェルナの顔を見た。
18年前は報告を読むのが仕事だった女が、代わりの名を彫る金を、自分から出した。
「言っとくが」
「伺います」
「俺は、それを怒らねえ」
「怒っていただいた方が、楽でございます」
顔は、動いていなかった。そのまま、こう続けた。
「……ですが、そうなりますと、わたしは次から、同じことを我が君に隠して決めます。ですので、お怒りにならない方がよろしいかと存じます」
俺は、台座から手を離して、広場を見た。5つの店。値を訊かずに見るだけの客。膝をついた年寄り。真似をした若いの。
18年、この界は俺を待っていなかった。
「ヴェルナ」
「はい」
「ザルカは、東にいるのか」
「東は、いまもネフィスの領でございます」
「ネフィスは、そいつの下にいるのか?」
ヴェルナは、そこで初めて、紙の束をめくり、1枚を抜いて、俺に差し出した。
紙に、印が押してある。魔界文字の書状だ。3年前の日付で、東の領の徴税を認める内容だった。
差出人の名は、ザルカ。
受け取って、印を押しているのは、ネフィスだった。




