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第145話 いなくなったことになります

上の通路へは、西の階段から上がる。


階段は、段が高い。悪魔の足に合わせて刻んである。18年、人間の身体で暮らしてきた俺は、1段ごとに膝を高く上げなければならなかった。器が天級に戻っても、脚の長さは戻らない。


上がりきると、細い廊下だ。


左が広間を見下ろす手すり。右が、部屋の並びだ。いちばん奥が、俺の部屋だった。



その廊下の床だけ、埃が無かった。


広間の床は、隅に埃が寄っている。ここは違う。真ん中が、幅3尺だけ、はっきり黒い。石の色が出るまで掃いてある。


端は、積もったままだ。



奥の扉が、開いていた。


中で、燭台(しょくだい)の蝋燭が1本だけ点いている。人が1人、布巾(ふきん)を持って卓の縁を拭いていた。


小さい。俺の胸のあたりに頭がある。


18年前と、背が変わっていない。悪魔は、人間ほど背が伸びない。年の分は別のところに出る。



「ルシェ」


その女は、手を止めずに、卓の縁を端から端まで拭ききり、布巾を畳んでから振り返った。


「陛下。お戻りになったのですね。おめでとうございます」


声が、高くて、平らだ。



銀の髪を、耳の下で切ってある。自分で切った長さだ。左右が揃っていない。


目が、大きい。悪魔の中では珍しく、瞳の色が薄い。


腕が細いのに、右の肩だけが上がっている。18年、同じ手で同じものを拭いてきた肩だ。


「さっき、上にいたな」


「おりました」


「降りてこなかった」


「足を痛めておりまして」


燭台の火が、卓の縁でかすかに揺れた。



「嘘だな」


「はい」


ルシェは、布巾を卓の上に置いて、両手を前で合わせた。その形が、ヴェルナと同じだった。同じ教わり方をしている。


「嘘でございます。申し訳ありません」



「なんで嘘をついた」


「陛下がお訊きになったからです」


「訊かれたら、嘘をつくのか」


「いいえ。……本当のことを申し上げると、長くなりますので」



俺は、部屋を見た。


俺の部屋だ。18年前のままだ。卓があって、椅子が2つ。窓が1つ。窓の外は、赤黒い空だ。椅子の1つは、誰も座らないまま18年ぶん拭かれている。


卓の上に、何も無い。


それでも、拭いてある。その跡が、木目に沿って光っている。



「毎日か」


「毎日でございます」


「18年」


「18年と、38日です」


数え方が、ヴェルナと1日違う。


どちらかが、俺の死んだ日を1日ずらして数えている。訊けば、どちらかが間違っていることになる。だから訊かなかった。



「なんで拭く」


「埃が積もりますので」


「積もったら、どうなる?」


ルシェは、そこで初めて、俺の顔を見た。


「いなくなったことになります」



俺は、窓の方へ歩きながら、この部屋の空気を吸った。18年ぶりだ。埃の匂いがしない。石と、布と、蝋(ろう)の匂いだけがする。


「あんた、俺が生きてると知ってたか」



返事が、無かった。


俺は、振り返らずに、窓の外を見ていた。赤黒い空の下に、城下の灯りが見える。18年前より、数が少ない。


背中で、布巾を持ち直す音がした。


「……8年前に、伺いました」



「誰にだ?」


「ヴェルナ様です」


「あいつは、経路を失ったと言った」


「失いました。ですが、生きておられることは、掴んでおいででした」


「人間界のどこかに、生まれ直しておられる。追えないが、死んではいない。……そう伺いました」



8年だ。


8年前に何をしていたかは、思い出すまでもなかった。ダンジョンの底で、魔物を狩っていた。人間の身体で、器を1割ずつ増やしていた。出ようと思えば、出られた。


出なかった。


行く先が無いと思っていた。



「陛下」


「あぁ」


「ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「訊け」


「人間界のダンジョンというのは、出口がございませんか」



俺は、窓に背を向けて、振り返った。


ルシェは、卓の横に立って、布巾を胸の前で握っていた。その手が、白くなっていた。


「あった」


「では、なぜですか?」



「出る理由が無かった」


言うと、ルシェの肩が、一度跳ねた。


「そうですか」


「あぁ」


「そうですか。……理由が」



彼女は、そこで布巾を卓に置いて、丁寧に広げた。皺を伸ばして、角を揃えてから、こちらを見ずに言った。


「わたくし、18年、毎日ここを拭きました」


「聞いた」


「初めの10年は、いつか帰ってくる方の部屋として拭いておりました。8年前からは、帰れるのに帰っていらっしゃらない方の部屋を、拭いておりました」



「ルシェ」


「陛下。わたくし、嘘を1つ、申し上げます」


「言うな」


「わたくしは、怒っておりません」


声は、高くて、平らで、18年前と同じだった。



俺は、その顔を見て、何を言うかを考えた。出てきたのは、いちばん使い慣れた言葉だった。


「悪かった」


言ってから、間違えたと分かった。


3度目だ。



ルシェの目が動いて、俺を見た。口の端だけで、笑った。


「お詫びをいただく筋合いがございません」


「あるだろうが」


「ございません。陛下は、わたくしに何も約束なさっておりません」



「約束してねえな」


「はい」


「してねえから、あんたは怒れねえのか?」


ルシェは、答えずに、燭台の火を指で摘んで消した。部屋が暗くなって、その中で、声だけが続いた。



「明日から、この部屋を拭くのをやめます」


「なんでだ?」


「お戻りになりましたので」


「それは、やめる理由か」


「理由でございます」



彼女は、扉の方へ歩いて、敷居のところで止まった。振り返らずに、こう言った。


「陛下。埃が積もったら、お呼びください」


「呼んだら、来るのか?」


「参ります。……18年、そうやって呼ばれるのを待っておりましたので」



足音が、廊下を遠ざかった。


掃いた3尺の上を、まっすぐ歩いていく音だった。端を踏まない。8年、この女は端を踏んでいない。


俺は、暗い部屋に立ったまま、卓の上に手を置いた。掌の下が、まだ温かかった。

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