第144話 18年と、37日
ヴェルナは、床から顔を上げないまま、こう言った。
「お立ちのままで、しばらくお待ちください」
「なんでだ?」
「顔を、整えますので」
俺は、待った。18年ぶりに戻った男が、最初にやったのがこれだった。
待っている間、広間を見た。柱が6本。18年前と同じ数だが、3本の根元が黒く焦げている。その上から、新しい石で継いである。継ぎ目が荒い。石を選ばずに、その辺にあるものを積んだ跡だ。
鎖は、1本のままだった。天井の梁から下がって、床の上で20歩ぶん、たわんでいる。
前は、4本あった。
「ヴェルナ」
「まだでございます」
「鎖が3本、無くなってる」
「……売りました」
床に向かって答えたので、声が石に吸われた。
「3本で、東の領の麦が2年分になりました」
顔を上げたとき、この女の目は乾いていた。
黒髪が、腰まで伸びている。18年前は肩で切っていた。切る者がいなくなったのか、切る理由が無くなったのか、そこまでは分からない。先の方が、梳いていない束になっている。
背が高い。俺と目の高さが変わらない。
立ち上がる動きに、音が無かった。
膝を伸ばして、外套の裾を直して、両手を前で合わせた。手の甲が、荒れている。紙を扱う手とは違う。鑿と、石と、縄を触ってきた手だ。爪が短く削ってある。
18年前、この女の仕事は、左の椅子で報告を読むことだった。手が荒れる仕事ではなかった。
「お帰りをお待ちしておりました」
「あぁ」
「18年と、37日でございます」
天井から下がった鎖が、床の上でかすかに擦れた。
「数えてたのか」
「数えておりました」
「東の棚で、か」
ヴェルナの指が、一度、動いた。
「……棚を、ご存知ですか」
「焼けたんだろうが」
「焼けました。あの冬でございます」
彼女は、そこで初めて、俺の顔をまともに見た。
「我が君。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「訊け」
「あなた様は、どこにおいででしたか」
18年前に死んだ男に、どこにいたかを訊いている。泣きも怒りもせずに、空いていた行き先の欄を、1つ埋めようとしている。
「人間界だ」
「……人間に」
「生まれ直した。18年、底から這い上がってきた」
ヴェルナの肩が、一度だけ、大きく上下した。
「では、間違っておりませんでした」
「何がだ?」
「わたし、18年前の冬に、人間界へ渡りました」
俺は、ヴェルナの顔を見た。動かさないようにしている顔だった。
「あんたか」
「はい」
「南街区に、刻印を入れた」
「入れました」
「27人だ」
「41人でございます。14人は、その冬のうちに死にました」
答え方に、揺れが無い。
「わたしは、あなた様の魂の行き先を追いました。追って、人間界に落ちたところまでは掴みました。……そこで、経路を失いました」
「渡れる者が、0になったからだな」
「ご存知でしたか」
「聞いた」
「わたしが最後の1人でございました」
「帰ってきてからは、二度と道を開けられませんでした。……開ける術を持った者は、わたしより先に死んでおります」
俺は、広間の真ん中まで歩いて、字の面を上にして置かれた石を拾った。俺が投げた石だ。魔界文字で、俺の名が彫ってある。彫りが浅い。焼け跡の外で、風の中で、ミルカが震える手で彫ったものだ。
「これを置いたのは、あんたか」
「わたしです」
「なんで、字を上にした」
浅い彫りに、指の腹が引っかかった。
「読めるようにでございます」
「誰に読ませる」
「あなた様にです」
「79個、拾いました。78個は、名の面を伏せて仕舞いました。1つだけ、ここへ置きました。……いつかお戻りになったときに、拾うのは我が君だと思いましたので」
俺は、その石を握って、外套の内に入れた。そのとき、指が塩の包みに当たった。エリシアが持たせた、ラセルの井戸の塩だ。
「ヴェルナ」
「はい」
「留守を頼むと書いた」
「いただきました」
広間の冷えが、外套の裾から上がってきた。
「11文字を、4つに分けたやつだ」
「4つ、揃いました」
言ってから、初めて、両手が動いた。外套の胸元を握って、そこで止まった。
「……揃うまでに、6日かかりました。3つ目までで、意味が通らなかったのです」
「通らねえだろうな」
「通りませんでした。ですので、通らないまま、3日待ちました」
「待って、どうした」
「4つ目が来ました」
ヴェルナは、一度、息を吸った。
吐く息が、少し長かった。
「『すぐ戻る』でございました。……我が君。あの『すぐ』は、何日を指しますか」
俺は、答えなかった。
石を投げてから、ここに立つまでに何日かかったのかを、俺は一度も数えていない。余裕が無かったと言えば、嘘になる。
ヴェルナの方は、数えていた。
「19日でございます」
「先に18年ありましたので、19日は、短うございました」
広間の奥で、音がした。
扉の音とは違う。上だ。天井の近くに、細い通路がある。そこを歩く足音が、石に反響して降りてきた。
音は、途中で止まったまま、動かなくなった。
「誰だ」
「ルシェでございます」
「呼べ」
「呼びません」
ヴェルナの声が、初めて硬くなった。
「あの者は、18年、この城を出ておりません」
「それで、なんで降りてこねえ」
「降りてこない理由を、わたしの口から申し上げるわけには参りません」
「ご本人に、お訊きください。……ただし、今日はおやめください」
「なんでだ?」
「今日お訊きになると、あの者は嘘をつきます」
俺は、天井の方を見た。
通路は暗い。人の形は見えない。それでも、音が止まったまま、まだそこにいる。引き返す音は、一度もしていない。
「もう1人は」
「ネフィスは、東の領におります」
天井の通路では、まだ何も動かなかった。
「呼べるか」
「呼べます。ですが、来ないかと存じます」
「来ねえのか」
「来られない事情がございます」
ヴェルナは、顔を伏せた。
「東の領は、いま、我が君のものではございません」
俺は、広間を見回した。継いだ柱。1本しかない鎖。埃の積もり方が、隅と真ん中で違う床。
18年、待っていたのは1人だった。




