第143話 床では、ないのですね
渡る前の晩に、エリシアが来た。
馬車ではなく、馬で来た。供は無し。1人だ。焼けた門の跡で降りて、外套も取らずに中庭まで歩いてきて、俺の前で止まった。
俺の腕の輪を見た。まだ外れていない。首の焼け跡を見て、それから、顔を見た。
「間に合いましたでしょうか」
「明日だ」
「では、間に合いました」
彼女は、そう言って、白い息を少しだけ吐いた。
「王都から、4日でございます。3日半で参りました」
「誰に聞いた」
「ミルカ様のお手紙でございます。……あの方は、日付を必ず書かれますので」
その夜、誰も寝なかった。
中庭で火を焚いて、ポーラが鍋を3つ掛けた。篝火の代わりに、折れた梁を燃やした。子供たちが起きていて、テオが11人分を椀に注いで回った。
フィーネは、毛布を巻いて座っていた。
器の4分の1を出した身体は、火の前でも冷えるらしい。座ったまま、紙に何か書いていた。膝の上の板が、書くたびに少し滑っていた。書いているのは、名簿だった。
「何を書いてる」
「ここにいる者の名ですわ」
「なんでだ?」
「数えてあれば、戻ったときに分かりますでしょう」
フィーネは、炭の先を、爪で削った。
ミルカが、俺の横に座って、紙を1枚差し出した。魔界文字の68字だ。上の横棒を足した形が、横に小さく書き添えてある。
「持っていってください」
「覚えてる」
「わたしの分です」
「向こうで、わたしの知らない字を見たら、ここに足してください。……帰ったら、見せてください」
リディアは、火から離れたところにいた。
エルマと、テオと、3人で座っている。エルマは椀を持ったまま、湯気を見ていた。
リディアが、母の手から椀を取り、息を吹きかけて、また返した。エルマは、何も言わずに飲んだ。
リィナは、俺の隣で木剣の柄を巻き直していた。
巻き終わるまで、何も喋らなかった。
「ゼノ様。ひとつだけ、お願いがあります」
「どうした?」
「向こうで、名前を呼んでください」
「誰のだ?」
「向こうにおられる方たちのです」
彼女は、木剣を膝に置いた。
「わたし、名前を呼ばれて生き延びました。……18年待った人は、たぶん、忘れられているのがいちばん怖いです」
俺は返事の代わりに、火に枝を1本足した。
エリシアが、最後に来た。
全員が寝たあとだ。俺は井戸の縁に座っていた。彼女は、その横に立って、しばらく井戸の中を見ていた。
それから、外套の内側から、小さな布の包みを出した。
「なんだ」
「塩でございます」
「塩」
「ラセルの、塩の井戸のものでございます。汲む者がおりませんでしたので、わたくしが汲んで参りました」
「……向こうに、塩がおありでしょうか」
「知らねえ」
「では、お持ちください」
俺は、その包みを受け取って、外套の内に入れた。エリシアが何を言いに来たのかは、分からなかった。
「エリシア」
「はい」
「あんた、止めに来たんじゃねえのか」
「止めません」
彼女は、初めて、俺の方を向いた。
「わたくし、一度、あなた様に選ばせませんでした。……あれで、どうなったかを、わたくしは覚えております」
「あぁ」
「ですので、今度は、お止めいたしません」
声は、平らだった。
指だけが、外套の前を握っていた。
◇
翌朝、井戸の底に4人が下りた。
俺と、アステリアと、ミルカと、リディアだ。ミルカは書くために、リディアは押さえを見るために来た。
石は、乾いている。
4本の線が、日の差さない底で、黒く見えた。
アステリアが、石の上に膝をつき、指で線をなぞってから、その内側に、炭で4本の直線を引いた。石の彫りとは別の4本だ。
その端を、弧で結んだ。
石が鳴った。
低い音だ。井戸の底の水気が、その音で震えた。
音というより、石の中で何かが揃った感じがした。耳ではなく、腹で聞こえた。井戸の壁が、その音を上へ返した。上で、誰かが縁を掴んだ音がした。
「開きます」
アステリアが、そう言った。
「開いたら、わたしが先に入ります。入って、向こうで引きます」
「引くな」
「引かれると、俺の器が、そっちに合わせに行く」
「……よくご存知ですね」
「一度、腕の輪でやられた」
俺は、腕の輪を見た。
首のは焼いて落とした。腕のは残っている。18年で、いちばん器が減っている今、これを嵌めたままで跨ぐ。
「自分で行く」
穴が開いた。
3尺半では済まない。立ったまま歩いて入れる。丸くない。四角でもない。縁が、目で追えない形をしている。追おうとすると、目の方が滑る。
向こう側が、見えた。
石の床だ。赤黒い。柱が見える。18年ぶりの床だった。
「閉じません」
「押さえが、効いています。……4人分、1つも欠けていません」
俺は、その穴の前に立った。後ろは見なかった。振り返れば、上を見る。上には、女たちと、子供たちと、テオと、エルマがいる。
「行ってくる」
言って、跨いだ。
跨いだ瞬間に、身体の内側が鳴った。
鐘の中に入ったのと同じだ。音が、外から来るのではない。器そのものが鳴っている。その鳴り方に、器の壁が付いていかない。
割れる音がした。
内側から、細い線が走った。
18年前、背中から光の輪が入ってきたときと、同じ場所だ。そこから縦に、器が裂けようとしている。
俺は、その裂け目に、闇魔法を流した。
砦の門の蝶番にやったのと同じことだ。隙間を埋める。埋めれば、当分は落ちない。
塞がらなかった。
魔力量が足りない。3割しかない器から出した闇魔法で、その器の裂け目を埋めようとしている。自分の壁を、自分を削って塞いでいる。埋めた分だけ、器が減る。
そうなれば、また裂ける。
数えて、足りない。
俺は数えるのをやめて、器の壁を、内側から押した。
勘定ではない。器を広げようとしている。人間の身体のまま、天級まで押し広げようとしている。できるかどうかを、俺は知らないまま押した。
壁が、動いた。
その分だけ、裂け目が広がって、何かが出ていった。
俺は掴もうとした。
それは指の間を抜けて、穴の縁の方へ流れて、石に吸い込まれた。
石が、それを飲んだ。
その分だけ、穴が固くなった。その中で、俺の器が、初めて広がる方へ動いた。
3割が、4割になった。
4割が、6割になった。そこで一度止まって、また裂けた。
闇魔法を流して、押した。また裂けたので、その上からもう一度流した。
何度やったかは、数えていない。
終わりは、向こうから来た。
膝が、石についた。
冷たい。人間界の石とは違う冷たさだ。膝頭から、それが上がってきた。掌をついた床が、赤黒い。18年、毎晩思い出していた色だった。
顔を上げた。
柱が6本。鎖が1本。天井が高い。広間だ。俺の広間だ。
器を探った。
底が、無い。
3割でも、6割でもない。底の位置が、探っても見つからない。18年前に持っていたものと、同じ手触りだった。
天級だ。
立ち上がった。膝の下の床が、その跡だけ黒く濡れていた。
広間を見た。誰もいない。鎖が1本、天井の梁から下がって、端が床に垂れている。その先の床に、石が1つ置いてある。
字の面が、上を向いていた。
俺が投げた79個のうちの、1つだ。
背中で、扉が鳴った。
振り返った。
広間の奥の扉が開いていて、その向こうに、女が1人立っていた。黒髪だ。俺の覚えている長さより、ずいぶん長い。
その女は、俺を見て、動かなかった。
そのまま、こう言った。
「……床では、ないのですね」
低い声だ。18年前と、同じ低さだった。
俺は、口を開いた。何を言うかを考える前に、出た。
「ヴェルナ」
女は、その場で膝をつき、額を床につけたまま、動かなかった。
俺は、そこまで歩いて、その前に立った。
「留守、ありがとよ」




