第142話 留守を頼む
朝、リィナがいなかった。
幕の中に木剣が置いたままになっている。置き方が、昨夜のままだ。拾っていない。この娘が木剣を置いて出たのを、俺は初めて見た。
ポーラが、竈の前から声をかけてきた。
「東の崖の方だよ。夜中に出てった」
俺は、東へ歩いた。焼け跡を出ると、草の上に霜が残っていた。
歩きながら、何を言うかを考えたが、まとまらなかった。何を組み立てても、昨夜の自分の台詞が先に出てくる。
あんたの器は、小さい。
事実だ。事実を言って、何かが良くなったことが、この冬、一度も無い。
崖の上に、いた。
風が下から吹き上げていて、髪が全部後ろへ流れていた。座ってはいなかった。立って、素手で型をやっていた。木剣を置いてきたので、握るものが無いまま、握る格好で振っていた。
俺が来たのに気づいて、止まった。振り返らなかった。
「戻れ」
「戻ります」
「なら、いい」
「戻りますけど、今すぐではありません」
断る言い方だった。
俺は、その2歩後ろに立って、崖の下を見た。谷とは呼べない。ただの斜面で、下に石がごろごろしている。落ちれば怪我をするが、死にはしない高さだ。
「昨日のは、言い方が悪かった」
「言い方の話ではありません」
「じゃあ、何の話だ?」
崖の下から、風が霜の匂いを吹き上げてきた。
「わたしが要らないという話です」
「要る」
「どこにですか」
俺は、そこで詰まった。
答えならあった。この娘に信じさせる方法が、無かった。
リィナが、振り返った。
目が赤い。泣いた赤さだ。隠す気が無い。
「ゼノ様。わたし、数えました」
「何をだ?」
「わたしが、ゼノ様の役に立った数です」
「昨夜、ずっと。……7つでした」
「少ねえな」
「少ないです」
「その7つのうち5つが無けりゃ、俺は死にかけてた」
言ってから、自分の言い方の下手さに気づいたが、言い直さなかった。言い直すと、また別の間違い方をする。
リィナは、俺を見ていた。少し口を開けて、閉じた。
「……ゼノ様も、数えたんですか」
「あぁ」
「いつですか?」
「昨夜だ」
彼女の顔が、崩れた。
泣くのとは違った。笑うのとも違う。眉が動いて、口が動いて、途中で全部やめた顔のまま、止まっていた。
「ずるいです」
「そうか」
「ずるいです。わたしが7つ数えているときに、ゼノ様もだったなんて」
俺は、崖の下を見ていた。
「石には、入れねえ」
「……はい」
「入れねえが、留守を頼む」
言うと、リィナが口を閉じた。
崖の下から、風が何度か吹き上げた。
「それ」
「あぁ」
「石に彫って、送った言葉ですよね」
「あぁ」
リィナの指が、握るもののない形のまま、ゆるく開いた。
「ヴェルナさんに」
「そうだ」
リィナは、両手を下ろした。
「わたしは、2人目ですか?」
「順の話か?」
「順の話です」
「18年空けた奴と、昨夜怒った奴だ。……どっちが先かは、俺が決めることじゃねえ」
彼女は、目を拭ってから、来た道を戻り始めた。
「戻ります」
「あぁ」
「木剣、置いてきました」
「拾っとけ」
「拾います。……ゼノ様が拾っていないのは、知っています」
この娘は、そう言って、先に歩いていった。
井戸の底で、3人が並んだ。
フィーネ、ミルカ、リディア。1本目は、エルマが埋めた。残りは3本だ。
エルマは、上にいた。テオが横についている。彼女は縁から中を覗いて、指をこすり合わせていた。動きが、前より遅い。それでも、止まってはいなかった。
「順は、外から内です」
上から、エルマがそう言った。
フィーネが、2本目に掌を伏せた。
その間、彼女は一度も目を閉じなかった。石の表面の細かい瑕を、1つずつ目で追っていた。
離した掌の下に、何も無い。
立ち上がるとき、少しよろけて、ミルカの肩を掴んだ。
「フィーネさん」
「……平気ですわ」
「顔色が」
「顔色の話は、後にしてくださいまし」
彼女は、自分の指を見ながら言った。
「……あら。冷えますのね」
ミルカが、3本目に掌を伏せた。
その瞬間に、彼女は息を吸って、止めた。脈が3つ打つほどの間、そのままだった。
離した手が、震えていた。
「ミルカ」
「書けます」
彼女は、俺の方を見なかった。
「手は、残っています。ゼノ。……わたし、まだ書けます」
リディアが、4本目の前にしゃがんで、晒の包帯を解き始めた。時間がかかった。指が6本潰れている両手で、自分の包帯を解いている。誰も手伝わなかった。
解き終わった手を石の上に置く前に、彼女は一度だけ上を見た。
上に、エルマがいた。
母親は、娘の方を見ながら、指をこすり合わせていた。
「母さん」
「……はい」
「わたし、埋めるから」
「そうですか」
リディアが、剥き出しの掌を伏せた。
そのまま、息を20吐くほどの間、動かなかった。
その間、上で音がした。
見上げると、エルマの指が止まっていた。彼女は縁を両手で掴んで、井戸の中を、じっと覗いていた。
リディアが、手を離して、自分の掌を見た。潰れた指が、伏せた形のまま戻らずにいた。それから、上を見た。
エルマは、まだ覗いたまま、こう言った。
「……リディア」
リディアは、石の上に座り込んで、両手で顔を覆った。その手の下から、音が出た。
俺は、その横に立ったまま、何もしなかった。手を伸ばせば届く距離だ。そこにいて何もしないのは、18年で初めてではない。ここで俺が何かをすると、この場が俺のものになる。
上で、エルマが言い足した。
「リディア。……冬至の手紙、12通、届いています」
「読めなかっただろ」
「読めませんでした。ですが、数えました」
石は、埋まった。
4本とも、指を入れると途中で止まる。中に何かが詰まっている。触ると、生温かい。石が持つ温度とは違う。
アステリアが、縄で下りてきて、その石を見た。指を1本、線の中へ入れて、抜いた。
「……人が4人、入っていますね」




