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第141話 跨いでいる途中で

ミルカが気づいたのは、その晩だった。


中庭の幕(まく)の下で、紙を3枚並べていた。1枚はアステリアの4本の線。1枚は井戸の石の写し。もう1枚は、俺の器の目減りを日ごとに書いたものだった。


3枚目を、俺は見ていなかった。


俺が見ていない間も、この娘は毎日それを書いていた。日付と、数字と、その日に俺が何に器を使ったかまで並べてある。



「ゼノ」


「あぁ」


「4本で、人が1人分です」


「そう聞いた」


「あなたの器は、3割です」


ミルカは、羽根ペンを置いて、こちらを見た。目が、いつもより開いていた。



「3割を全部入れると、押さえは立ちます。足ります。……ですが、そのあと渡る分が、0になります」


「そうだな」


「そうだな、ではありません」


ミルカは、言ってから自分で驚いた顔をした。声を大きくしたのを、俺は初めて聞いた。



「ゼノ。あなた、井戸の底で数えましたね」


「数えた」


「足りたので、黙っていましたね」


「あぁ」


「わたし、そういうのが、いやです」



幕の外で、音がした。


布を押しのけて、リィナが入ってきた。稽古の途中だったのか、額が濡れている。ミルカの横に立って、俺を見た。


「ゼノ様。いま、なんの話ですか?」


「聞いてたんだろうが」


「聞きました。もう一度、ゼノ様の口から聞きたいです」



俺は、その顔を見た。返事を待つ顔だった。待っている間、この娘は瞬きをしない。


「押さえは、俺が入る」


「それで、誰が渡るのですか?」


「渡らねえ」


「では、なんのために開けるのですか?」



「開けとけば、向こうから来られる」


リディアが、柱の陰から出てきた。フィーネが、その後ろにいた。2人とも、いつからそこにいたのかは分からない。幕の布が、風でもないのに揺れていた。


「……あんた」


リディアが、そう言った。


「自分が行かないで、向こうから来させるつもりだったのか」



「そっちの方が、数が合う」


「合わない」


「合うだろうが。1人が3割出して、3人が出てくる」


「合わないって言ってんだ」


リディアが、卓(つくえ)の脚を蹴った。その音が、幕の中で跳ねた。



「あんた、18年、何のために這ってた」


「戻るためだ」


「戻るのは、あんたが行くことだろ」


「結果は同じだ」


「同じじゃない」


彼女は、包帯の手を持ち上げ、俺の胸を突いた。指に、力が入っていなかった。



「わたしの母親はな」


リディアの声が、そこで崩れた。


「20年、指だけ覚えて、名前を忘れた。……あんた、同じことをやるつもりか。3割入れて、空になって、それで誰かが出てきて、出てきた奴に、あんたが誰か分かるのか」


俺は、答えなかった。


石に入った器が何を持っていくのかを、俺は一度も計算に入れていない。



フィーネが、前へ出て、卓の上に紙を置いた。数字が並んでいた。


「4分の1ずつ、4人ですわ」


「1人が全部を出す必要は、ありませんでしょう。器の4分の1なら、失っても生きられますわ。……魔法は使えなくなりますけれど」



「誰が出す?」


「わたしが1人目ですの」


「あんた、魔法が使えなくなるぞ」


「わたし、剣も持てませんし、走っても遅いですのよ」


フィーネは、指で紙の端を揃えながら言った。


「使えるものが1つしかない者は、それを使う場所を選べますでしょう」



「2人目は、わたしです」


ミルカが、手を挙げた。


「ミルカ」


「ゼノ。わたしの器は、上級魔法に届きません。ですが、魔力量だけはあります。……写すのに、魔力が要りますので」


「写せなくなる」


「書けます。手が残ります」



「3人目、わたしだ」


「わたしの器は、もう半分死んでる。指6本と一緒に潰れた。残り半分から4分の1出しても、変わらない」


「4人目は」


誰も、言わなかった。



俺は、幕の中を見た。


ポーラは、器を持っていない。テオも、子供たちも持っていない。アステリアは天界の器で、人間の石には合わない。合わないものを無理に入れれば、石の方が割れる。


残っているのは、1人だった。


リィナが、立っていた。



「わたしがやります」


「無理だ」


「やります」


「あんたの器は、小さい」


言った瞬間に、間違えたと分かった。2度目だ。1度目はラセルの納屋で、相手はリディアだった。



リィナの顔から、色が引いた。それから、耳の先だけが赤くなった。


「……知っています」


「そういう意味じゃねえ」


「どういう意味ですか?」


卓の上で、フィーネの紙の端が、ひとりでにめくれた。


「あんたを入れると、足りねえまま石が固まる」


「では、足りる人を4人集めてください」



「リィナ」


「わたし、いつもそうです」


彼女は、木剣を床に置いた。柄(つか)の巻きが、また少しほどけていた。


「砦のときも、外で列の先頭を歩いていました。谷のときも、見ていました。ゼノ様が井戸に下りたときも、わたしは上で縄を引いていました。……引くのは、力の要る方だと言いましたね」


「言った」


「あれ、嘘ですよね」



俺は、口を開いて、言葉を探した。いちばん近くにあったものを掴んだ。


「あんたが上にいたから、俺は下で3人を縛れた」


「それ、前にも似たことを言われました」


「廊下で。……無駄じゃない、と」



幕の中が、静かになった。


リィナは、木剣を拾わずに、外へ出ていった。布を押さえて、音を立てないようにしていた。


それが、いちばん悪い。


ポーラが、竈(かまど)の横から俺を見て、何も言わずに椀を1つ、卓に置き、リィナの出ていった方へ歩いていった。



俺は、その椀を見ていた。中身は、湯を足しただけのスープだ。塩が薄い。


18年、俺は人を数えてきた。使える者と、使えない者。数えれば、たいてい決まった。


今、数えて決めた。



「ひとつ、申し上げてよろしいですか」


アステリアは、幕の隅に座っていた。膝を抱えて、火を見ていた格好のままだ。あの夜から、座り方は変わっていない。


「順が、逆です」


「何がだ?」



「押さえを置いてから、器を測っておられます」


彼女は、火から目を離さずに言った。


「渡る者の器は、渡る前に測っても意味がありません。界を跨いでいる間に、器は作り変えられます。……天級に届くのは、跨いだあとです」


「跨ぐには器が要るんだろうが」


「要ります。ですので、跨いでいる途中で、間に合うかどうかです」



「間に合わなかったら、どうなる?」


「割れます」


「何割で跨げば間に合う?」


「分かりません」


アステリアは、そこで初めて、火から目を上げた。


「母は、2割で跨ぎました。跨いで、届きました。……母の前に跨いだ2人は、6割で割れています」

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