第140話 4本で、1人です
リディアが戻ってきたのは、5日後だった。
ポーラが門の跡まで出て、リィナと2人で馬車を待っていた。その間、2人は一言も喋らず、ポーラは椀を温め直し、リィナは道の先を見ていた。
馬車が1台。御者台に、14の少年が座っている。テオだ。手綱の握り方が、網を引く握り方になっていた。ラセルで会ったときより、また背が伸びている。
荷台に、エルマが乗っていた。
膝の上で、右手の指が動いている。親指と人差し指をこすり合わせて、何かを置く動きだ。ラセルの納屋で見たときと、1つも変わっていない。揺れる荷台の上でも、その動きだけは揺れていなかった。
「連れてきた」
「あぁ」
「テオも来た。……この子がいないと、飯を食わない」
リディアが、荷台の縁を叩いた。
エルマが顔を上げて、あたりを見た。焼けた砦を見て、中庭を見て、それから、井戸を見た。
そこで、指が止まった。
その指を、リディアが見ていた。
「……止まった」
「止まったな」
「20年で、初めて見た」
彼女は、そう言って荷台に手を掛けたまま、動けずにいた。その背中を、テオが御者台から降りて押した。
エルマは、自分で荷台を降りて、井戸の方へ歩いた。足取りに、迷いがない。中庭を横切って、縁の前で止まり、中を覗いた。
「水が、入っています」
「入ってたら、いけねえのか?」
「はい。濡れていると、付きません」
18年、俺が探していたものが、この一言だ。20年、棚の中にいた女が、焼けた砦の井戸を覗いて、天気の話をするように言った。
ミルカが走ってきて、紙と羽根ペンを構え、エルマの横にしゃがんだ。
「エルマさん。何を付けるのですか」
「……付けるもの、です」
「それは、どこにありますか」
エルマは、自分の指を見た。何も持っていない指を、何度もこすり合わせた。
「ここに、ありました」
「今は、ありませんか」
「ありません」
彼女の答え方は、丁寧だった。それが、いちばん悪い。
水を抜くのに、2日かかった。
釣瓶では追いつかない。桶の数も足りない。兵の残りと、教団から来た者と、テオと、子供たちで、桶を並べて回した。俺も回した。列の中ほどに立つと、掌の皮が縄の色になった。闇で持ち上げる方が速いが、そのたびに器が減る。
器は、3割で止まっている。
減らせば戻らない。今の俺は、そういう身体だ。
2日目の夕方、底が出た。
石が1枚あった。泥と苔を、リィナが布で拭った。水気が引くと、彫った線が影を作って、はっきり見えた。
4本と、弧。
エルマを、縄で下ろした。彼女は石の上に膝をつき、線の1本に指を入れて、そのまま止まった。
上から、全員が覗いていた。リディアも、テオも、ミルカも、リィナも、フィーネも、アステリアも。
エルマの声が、下から上がってきた。
「空です」
「200年、誰も来ていません」
「わたしは、谷の分を埋めました。ここは、聞いていません」
「じゃあ、どうやって埋めた」
「順番に、です」
俺は、縄を伝って下り、その横に膝をついて、線に指を入れた。指の腹に、砂が当たる。砂の下は、石だ。
「エルマ」
「はい」
「ここに何を詰める?」
エルマは、俺の顔を見た。
目の焦点が、初めて俺の顔の上に合った。ほんの一呼吸だった。
「……お若い方ですね」
「そうかよ」
「1つ、伺ってもよろしいですか」
「訊け」
「あなたは、これを、何回やるおつもりですか」
俺は、答えなかった。
回数は、考えていなかった。1回だと思っていた。1回開けて、渡って、それで終わりだと思っていた。
エルマは、答えを待たずに、自分の左の掌を線の上に伏せた。
しばらく置いてから、持ち上げた。掌の下に、何も残っていない。石は乾いたままだ。
「これで、1つです」
「何が入った?」
「わたしの分です」
上で、リディアが縁を掴んだ。その音が、井戸の中まで落ちてきた。
「母さん」
エルマは、上を見ずに、2本目の線に掌を伏せた。
俺は、その手首を掴んだ。
腕が軽かった。65の女の腕だ。袖の下で骨の形が分かる。細いのに、線から離れようとしなかった。
「やめろ」
「まだ、2本目です」
「何が減ってる」
「減っていません。移しています」
指の下で、細い脈がゆっくり打っていた。
「どこへだ」
「石へです」
「人が1人、ここへ入ります。入った分だけ、押さえになります。……1本に1人ではありません。4本で、1人です」
俺は、その手首を離さずに、上を見た。上から、リディアの顔が見えた。口が開いていた。声は出ていなかった。
「4本で1人なら、あんたは今、4分の1だな」
「はい」
「残り3本は、誰がやる?」
「わたしです」
井戸の底の冷えが、膝から上がってきた。
「あんたは、それで空になる」
「空になります」
彼女は、そこで初めて、上を見た。
上の顔を、1つずつ見て、視線がリディアのところで止まった。
「あの方は、どなたですか」
「あんたの娘だ」
「……そうですか」
エルマは、そう言って、また線を見た。
「では、やめておきます」
「なんでだ?」
「娘がいる者は、勝手に空になってはいけません」
言い方が、丁寧だった。今度は、悪くなかった。
俺は、その手首を離して、自分の掌を見た。人間の皮膚の下に、黒いものがある。器は3割。4本で1人分なら、俺の3割で足りるかどうかは、数えれば分かる。
数えた。
足りたので、俺はそれを誰にも言わなかった。




