第139話 数える側に入れるな
井戸を塞いでいたのは、梁が2本と、屋根板の束だった。
上から落ちて、途中で引っかかったまま炭になっている。押せば崩れて、下へ落ちる。下には人がいる。冬の水に浸かって、まだ人の形をしている者たちだ。
俺は、闇を薄く伸ばして束の下へ回し、下から支えながら少しずつ引き上げた。その間、誰も喋らなかった。
板を外に積み終えるのに、半刻かかった。
井戸の口が開いて、水の匂いが上がってきた。焦げた匂いの中で、そこだけが違う匂いをしていた。
フィーネが、縁に手をついて中を覗き、すぐに顔を戻した。口を押さえたまま、しばらく動かなかった。
「わたしが下ります」
リィナが、そう言った。
「縄を回してください。2本です」
「あんたが下りて、どうする?」
「1人ずつ、縛って上げます。……わたし、軽いので、下で動けます」
俺は、その顔を見てから、縄を1本取った。
「俺が下りる」
「ゼノ様」
「あんたは上で引け」
「引くのは、力の要る方です」
「引く方に、上手い奴を置きたいんだよ」
縄を腰に巻きながら、器の底を探った。3割1分。今日、これ以上は使えない。
下りるだけなら、魔法は要らない。
井戸は、思ったより浅かった。
底まで、8歩ほどだ。水は膝の上まで来ている。冷たさが、足から膝、膝から腹へ上がってきて、そこで息の長さを短くした。
火を1つ、頭の上に浮かべた。
その下に、3人いた。
2人は、水に浮いていた。
1人は、壁際に座った格好のまま、動かずにいる。膝の上に、何か抱えている。
近づいて、火を寄せた。水の面が揺れて、壁の石に丸い光が走った。
抱えていたのは、鞣した革の袋だった。中に、麦が入っている。濡らさないように、腹の前へ持ち上げた格好で死んでいた。
俺は、その袋を先に上げた。
縄に結んで、引けと言った。上っていく袋を、下から見上げた。
それから、1人ずつ縛りながら、顔を見た。3人とも、俺の知らない顔だ。砦の兵ではない。門の外にいた千人のうち、歩けなかった側だ。
最後の1人を上げてから、俺は水の中で足の裏を動かした。
底は、石だ。井戸の底に、平らな石が敷いてある。細かい敷石とは違う。大きな石が1枚、底いっぱいに置いてある。
俺は、水の中へ手を入れた。
指が、線に触れた。
彫った線だ。地下のような焼き跡とは違う。深い。指の第1関節が入る。
線を追った。まっすぐ伸びて、途中で曲がり、また伸びて、別の線とぶつかった。その角のところだけ、指先に砂の感触があった。
4本。
それと、端を結ぶ弧。
上で、リィナが俺を呼んだ。
「ゼノ様。上がってください」
「まだだ」
「水が冷たすぎます。唇の色が、上からでも分かります」
「もう少しだ」
「もう少しは、いつもの倍かかります」
リィナは、そう言いながら縄を下ろしてきた。
縄の先に、乾いた布が結んである。ゆるい結び方だ。ほどけば布だけ落ちるようにしてある。
俺は、それを見て、水から手を出した。手が、赤くなっていた。
上がると、外は夕方だった。
3人は、中庭に並べてある。布を1枚ずつ掛けてあった。その横に、フィーネが座って、紙に何か書いていた。
近づくと、名前だった。
「聞き取りましたの。門の外におられた方たちの中に、ご家族がおりましたわ」
「名前は分かったのか?」
「3人とも」
「1人は、麦を抱えてた」
「クレムさん。65です」
フィーネは、そう言って、炭の先で紙の端を押さえた。
「孫が2人、北東へ歩いた側におりますの。……あの日、走れなかったので、井戸の水を汲んでから追いかけるつもりだったそうですわ」
ポーラが、椀を3つ、3人の横に並べた。縁から、まだ湯気が出ていた。ポーラは竈へ戻って、何も言わずに鍋をかき混ぜ始めた。
リィナが、その背中を見ていた。それから俺の横に来て、乾いた外套を差し出した。
「ゼノ様。手が、まだ赤いです」
夜、俺は井戸の縁に座って、水の中の石のことを考えていた。4本と、弧。地下の線と、同じ形だ。地下のは焼いて引いてある。井戸のは彫ってある。
釣瓶の縄が、風で少し鳴った。リディアが隣に来て、縁に腰を下ろし、包帯の手を膝に置いた。
「彫りだったか」
「あぁ」
「じゃあ、詰めるやつだ」
「詰まってたのか?」
「指が入ったんだろ。入るってことは、抜けてる」
「詰め直さないと、押さえにならない。……200年、誰も詰めてない」
水の中で触った線を思い出した。深い。指が入るなら、中は空だ。
「40年前に、王家が見るのをやめたんだったな」
「ネイアの話か」
「見るのをやめる前から、あれは空だ」
リディアは、水面を見ていた。
「うちの母親は、20年ごとに詰めてた。詰めるものが何かは、わたしは知らない。母は、何も持たない指で詰める」
「指の動きは覚えてる」
「覚えてるだけだ」
彼女は、そこで包帯の手を持ち上げ、自分の指を見た。
「詰めるものを知ってるのは、あの人の頭の中だけだ」
「そうだな」
「あんた、また言うと思ってた」
「あの納屋の晩のやつか」
「そうだ。あの人の頭の中に、俺の欲しいものが入ってる、って」
俺は、答えなかった。
言い返す言葉は持っていた。口に出すと、この女はまた港の方へ歩いていく。前に1度そうなった。1度で足りている。
黙っていると、リディアが先に喋った。
「明日、ラセルへ行く」
「あぁ」
「連れてくる。……納屋に置いておく理由が、もう無い」
彼女は、そう言って立ち上がり、2歩歩いたところで止まった。振り返らずに言った。
「ゼノ」
「あぁ」
「井戸の3人、あんたが自分で下りたな」
「あぁ」
「うちの母親を、そうやって数える側に入れるなよ」




