第137話 門じゃない、押さえだ
中庭の石畳を、ミルカが箒で掃いた。
炭を退けて、3歩四方を平らにする。箒の先が、すぐに黒くなった。そこに、アステリアが炭の欠片で線を引き始めた。
俺と、リディアと、ミルカが囲んだ。リィナは少し離れて、木剣を抱えて立っている。ポーラは竈の前から動かないが、さっきから鍋の音が止まっていた。焦げの匂いと、朝の湿った石の匂いが、同じ高さで混ざっている。
アステリアは、円を描かなかった。
引いたのは、直線だ。まっすぐな線を4本、互いに交わらないように並べた。目で測っただけとは思えないほど、間隔が揃っていた。そのあとで、4本の端を、1本の弧で結んだ。
「これが、始まりです」
「円じゃねえのか」
「円は、結果です」
「正しく引けば、閉じます」
リディアが、しゃがんで、その4本を見た。包帯の手を地面に置いた。石畳が冷えているのか、指が一度だけ縮んだ。それから、線の1本をなぞろうとして、止まった。
「境は?」
「要りません」
「壁の線は」
「要りません」
包帯の指は、線の上で浮いたままだった。
「……1つも、か」
「1つも要りません」
アステリアは、そう答えてから、言い足した。
「母は、こう言っていました。開ける場所を探すのは、術が足りていない証拠だと」
リディアの手が、地面から離れた。
膝の上へ戻る途中で、包帯の端がほどけかけているのが見えた。
彼女は立ち上がり、中庭を横切って、焼けた厩の方へ歩いていった。
俺とミルカは、追わなかった。俺には掛ける言葉が無かったし、ミルカは線から目を離せなかった。リィナは、木剣を地面に置いて、その背中の方へ歩き出した。
「リディアさん」
「来るな」
「行きます」
「あんた、いつもそれだな」
リディアは、焦げた柱にもたれ、包帯の手を胸の前で組んだまま、リィナの方を見なかった。
「20年だ」
「はい」
「母親が、棚の中で20年数えた。わたしは、外で12年、手紙を書いた。谷まで行って、壁を写して、指を6本潰した」
彼女は、包帯を見た。
「それを、あの娘は、要りませんと言った」
「言いました」
「あんた、何しに来た」
リィナは、答えずに、リディアの正面に立った。両手は、下ろしたままだった。
「殴っていいです」
「は?」
「わたしを殴ると、少し楽になります。……ゼノ様に手を出すと、あの方は避けません。避けないので、あとで嫌な気持ちになります」
リディアは、その顔を見た。
それから、笑った。
今度は、乾いた笑い方ではなかった。その分、喉の奥でひどい音がした。
「あんた、本気で言ってるのか?」
「本気です」
「殴られたことがあるな」
「あります」
「……そうかい」
リディアは、そう言って、柱から背を離し、リィナの横を通り過ぎた。肩がぶつかった。
戻ってきた女は、炭の線の前に座り直した。髪に藁が1本ついていたが、取らなかった。
そのまま、アステリアを見た。
「もう1回、引け」
「はい」
「わたしが見てるところで、最初からだ」
アステリアは、袖で線を消して、また4本を引き始めた。
俺は、その間、ミルカの手元を見ていた。
ミルカは、膝の上の板に紙を載せて写しながら、数字を横に書き込んでいる。線の本数と、角度と、引いた順だ。
「ゼノ。1つ、合いません」
「何がだ」
「拍です」
彼女は、羽根ペンを止めた。
「アスさんの術は、開いてから閉じるまで、どれくらいですか」
「閉じません」
「……閉じない、とは」
「わたしが閉じるまで、開いています。渡り終えるまで、こちらが保ちます」
ミルカの羽根ペンが、紙から浮いた。
「ゼノのは、3拍です」
「器を4割から6割にしても、5拍にしかなりませんでした。2割増やして、2拍です」
「そうなのですね」
「拍が伸びないのは、器が足りないからだと思っていました。……ですが、いまのお話ですと、長さを決めているのは、そちらではありません」
「支えの話です」
「開けた穴は、放っておけば縮みます。それを、術者が押し返します。押し返せる間だけ、開いています」
「押し返す力が、器ですか」
「いいえ。形です」
彼女は、炭を持ち替えて、4本の線の外側に、もう1つ何かを描こうとした。
その手を止めて、俺の方を見た。
「……これは、教わっていません」
「なんだそりゃ」
「母は、外側を描きませんでした。描かなくても、母は保てました」
リディアが、そこで顔を上げて、地面の4本を見た。
自分の外套の内側から、丸めた紙を出した。谷の壁の写しだ。
広げると、二重の円がある。
外が黒く、内が白い。
「これだ」
彼女は、その外側の円を指した。
「わたし、ずっと、これを門だと思ってた。開ける場所の印だろうと。……違う」
「じゃあ、何だ?」
「押さえだ」
リディアの声が、そこで少し上ずった。
「開けるのは、この娘の4本でできる。開けたあと、縮んでくるやつを、この外側の円が押さえてる。……押さえが石に彫ってあるから、術者が押さえなくていい」
彼女は、紙の縁を握った。
「うちの一族が20年ごとに埋めてたのは、門じゃない。押さえだ」
アステリアが、その紙を覗き込んで、眉の端を下げた。
「……こういうものが、あるのですね」
「あんた、知らないのか」
「知りません。天界では、要りませんので」
「あんたらは、自分で押さえられる。だから外側を描かない。手が足りない奴が、石に彫った」
彼女は、紙を石畳の上に置いて、アステリアの4本の外側に、その二重円を合わせた。
4本の端の弧と、円の内側が、ちょうど重なった。
ミルカが、息を呑んだ。
「重なります」
「あぁ」
「ゼノ。200年前の線と、天界の術が、ここで重なります」
俺は、その石畳を見ていた。合わさった線の重なりに、朝の日が斜めに当たっていた。
「なら、どこに彫る」
俺が訊くと、2人が同時に黙った。
リディアが先に口を開いた。
「彫らない」
「なんでだ?」
「石に彫った押さえは、彫った瞬間から使えるものじゃない。……谷のは、200年だ」
200年。
俺には無い。待ってる連中にも、無い。18年待たせた連中を、あと200年は待たせられない。
「じゃあ、話は戻るな」
「戻る」
「200年前に彫ってある石を、探せばいい」
俺が、そう言った途端に、ミルカが立ち上がった。その拍子に、膝の上の紙が全部落ちた。
「ゼノ」
「あぁ」
「この砦の、地下です」
声が、震えていた。
「去年、わたしが写しました。貯蔵庫の床です。彫ったものではなく、《《焼いて引いた線》》です」
俺は、その場で立ち上がった。




