第136話 途中は、無い
朝、俺は闇を解いた。
信じたからではない。組み続けていると、器が戻らない。4割の器が、夜のうちに3割5分まで落ちていた。焼け跡の朝は冷えて、その分だけ底の減りが早い。
闇が消えると、アステリアは足首を見てから、立ち上がった。少しよろけた。一晩座っていた足だ。天使でも、痺れるものは痺れるらしい。
「全部、喋れ」
「どこからですか」
「順は任せる。俺が訊くと、訊いた分しか出てこねえ」
アステリアは、竈の横に座り直して、両手を膝の上に置いた。
「では、数から申し上げます」
「天界は、界を渡れる者を数えています」
彼女は、そう始めた。
「そういう者は、どの界にも多くありません。術が難しいからではなく、器が保たないからです。界を1つ跨ぐたびに、内側から軋みます。それに耐えた者だけが、名を棚に載せられます」
「何人だ」
「天界は、11人でした。18年前の話です」
「今は」
「9人です」
竈の灰が、朝の風で少し寄った。
「そっちの話はいい」
「いいえ」
アステリアは、そこで俺の言葉を遮って、自分で驚いた顔をした。
「……申し訳ありません。ですが、こちらの数が要ります。天界が9人になったのは、2人が死んだからです。その2人が死んだ年と、あちらの数が減った年が、同じです」
「あちらの数」
「あなたの界です」
彼女は、言い直した。
「18年前の秋まで、あちらには、渡れる者が7人おりました。……その年の冬を最後に、あちらの膜は鳴っておりません。数の上では、0です」
俺は、竈の灰を見ていた。
7人。数は合っている。俺の側に、界を渡れる者は7人いた。全員、俺が名前を知っている。全員、俺の下にいて、俺が呼べば階の下まで来た。
そのうちの何人かは、俺が「行ってこい」と言えば行った。
「どうやって数えた」
「数える術があります。渡るときに、界の膜が鳴ります。鳴った回数を、天界の東の棚で数えています」
「東の棚」
「はい」
俺は、顔を上げた。
ミルカが、紙を落として、拾わずに俺の方を見た。この娘も、その語を覚えている。
「その棚は、今もあるか」
「……どうして、それをお訊きになるのですか」
「俺の城でも、東の棚が焼けた」
アステリアの顔から、色が引いた。
「焼けました」
「誰がやった」
「分かりません。わたしは、もう天界にはおりません。……ですが、焼けたことは、知っています」
「なんで知ってる」
「膜が、鳴りましたので」
「棚が焼けると、数が止まります。止まれば、こちらにも分かります。膜の鳴り方が、変わりますから」
俺は、リディアを見た。
リディアは、幕の柱にもたれたまま、こちらを見もせずに言った。
「あんたの石が届いた日だ」
「あぁ」
「あんたが、最後の1文字を送った日でもある」
彼女は、そう言って、包帯の手で自分の肘を掴んだ。
『生』。
俺が彫って投げた、最後の1文字だ。向こうの手がそれを拾って、目の高さまで持ち上げた。石は掌に載る大きさで、刃の欠けた小刀で彫ったので、縁がざらついていた。
ヴェルナは、生きている。
東の棚が焼けたあとも、あの広間にいる。
「訊く」
「伺います」
「渡れる者が0になった界は、どうなる」
アステリアは、手を組んだ。指が、白かった。
「……閉じます」
「閉じる、とは」
「外から開けることは、できます。ですが、内側からは無理です。中の者は、待つしかありません」
18年だ。
俺は、18年、人間界の底を這いながら、いつか戻ると思っていた。だが、戻る先の方が俺を待っていると思ったことは、一度も無かった。戻れば在る場所だと思っていた。そういう場所は、待たない。
待っていた。
あの広間で、鎖の下で、床に置いた石を字の面を上にして戻した者がいた。
「ゼノ」
ミルカが、俺の名を呼んで、紙を1枚差し出した。俺が最後に投げた石の写しだ。『生』の1字を、線の1本まで写してある。
「この石を、拾った手があります」
「知ってる」
「石を並べ直せる者が、あの広間にいます。……つまり、閉じ込められてはいますが、動けてはいます」
俺は、その紙を受け取った。
腹の底のものが、名前を持った。
18年前、俺は天界の回廊で殺された。殺した者を探すのが、18年の全部だった。飯を食う理由も、名を隠す理由も、器を戻す理由も、そこに繋いであった。
「順を変える」
「……ゼノ様」
リィナが、そう呼んだ。
俺は、その方を見ずに、灰の上に指で線を引いた。1本目を引いて、その横に、もう1本引いた。
「1本目が、殺した奴だ。こっちが、待ってる連中だ」
「今まで、俺は1本目から数えてた」
俺は、その1本目を、手の腹で消した。灰が指の間に入って、乾いた匂いがした。
「先に2本目だ」
「……よろしいのですか?」
ミルカが、そう訊いた。
「復讐を、後に回すという意味になります」
「なるな」
「なぜです?」
「殺した奴は、逃げねえ。18年逃げてねえ」
俺は、灰から手を離した。
「待ってる方は、減る」
言ってから、口の中が乾いた。
18年、俺は損得で決めてきた。たいていは、それで決まった。今のは、勘定ではなかった。
リディアが、柱から背を離して、こちらへ歩いてきた。
灰の上の1本目の跡を、草履の先で踏んだ。
「わたしは、1本目の方だ」
「あぁ」
「あんたが2本目を選ぶのは、あんたの勝手だ。わたしは、母親の20年を、まだ誰にも返してもらってない」
「返させてやる」
「順は後だろ」
「後だ」
リディアは、そこで少し、乾いた笑い方をした。
「はっきり言うんだな」
「ですが」
アステリアが、口を開いた。
「順を変えても、変えなくても、渡れません。あちらは閉じています。外から開けるには、正しい次元魔法が要ります」
「あんたが使えるんだろうが」
「わたし1人なら、渡れます。……あなたを連れては、無理です」
「なんでだ?」
「器です」
「界を跨ぐとき、器は内側から軋みます。わたしは、それに耐える器を持って生まれました。そうでない者は、跨いだ瞬間に、器が割れます」
「割れたら、どうなる」
「死にます」
彼女は、そこを言い淀まなかった。
「割れねえ器は、どこで作る」
「作れません。生まれつきです」
「じゃあ、話は終わりだな」
俺は、立ち上がって、焼けた門の方へ歩きながら、器の底を探った。3割5分。18年で、いちばん少ない。
背中で、声がした。
「1つだけ、方法があります」
俺は、足を止めて、振り返った。アステリアは、まだ竈の横に座ったまま、膝の上で指を組み直していた。
「ただし、天級です」
「天級」
「はい。あなたの器が、天級に届いた場合です」
「届いていれば、軋みを、器の側が受け止めます。足りなければ、割れます。……その2つしかありません」
俺は、焼けた門の枠に手を掛けた。
その手の下で、炭が崩れた。




