第135話 外せますが、外しません
焼けた砦には、屋根が3つしか残っていない。
そのうちの1つが、中庭の東にある納屋だ。壁が半分無い。無い方に幕を張って、風を止めてある。俺たちはそこで寝起きしている。
俺は、その幕の前まで娘を歩かせた。
その間、闇は解かなかった。1枚だけ、細く伸ばして、娘の右の足首に巻いてある。手を縛ると人は喋らなくなるので、手ではなく足にした。
リィナが、先に気づいた。
木剣を持って出てきて、俺の顔と、後ろの娘を順に見た。木剣を、稽古のときとは違う形で持ち直した。
「ゼノ様」
「あぁ」
「そちらの方は」
「天使だ」
リィナは、そこで2歩下がり、幕の入口の前に立った。中に誰がいるかを、俺は知っていた。
「どきません」
「どけとは言ってねえ」
「では、そこで止まってください」
リィナの視線は、俺ではなく、後ろの方へ向いている。俺の背中越しに、相手の膝と足首を見ていた。走れる相手かどうかを見る目だ。ガイルが教えた見方だった。
「わたし、アスといいます」
「名前は訊いていません」
「そうなのですね」
アステリアは、少しだけ首を傾けたきり、口を閉じた。
場が持たなくなったところへ、幕の中から椀を持った女が出てきた。
ポーラだった。
「あんた、飯は?」
「……食べて、おりません」
「じゃあ座んな」
「ポーラさん」
「リィナ。剣持ったまま飯の話すんじゃないよ」
ポーラは、そう言って、いちばん火に近い、竈の横の石を指した。
アステリアは、そこに座って、椀を両手で受け取った。俺の方を一度見てから、湯気に息を吹きかけた。
下手な吹き方ではなかった。
3度吹いて一口飲み、眉の端を下げた。
「熱いです」
「熱いって言っただろ」
「言われていません」
「言う前に飲むんじゃないよ」
ミルカが、紙を抱えて走ってきた。
止まらずにアステリアの前まで来て、しゃがみ、紙を地面に広げた。魔界文字の写しだ。68字ぜんぶ並べてある。
「これを読めますか」
「ミルカ」
「ゼノ。先に確かめたいことがあります」
彼女は、俺の方を見もしなかった。
アステリアは、椀を石の上に置いて、紙を見た。
指で、3つの字を順に押さえた。
「これと、これと、これは、天界の字です。崩れています」
「崩れている、とは?」
「もとの形から、上の横棒が1本落ちています。魔界では、そう書くのだと聞きました」
ミルカの手が、そこで止まった。
それから、紙の端をめくった。
「……ゼノ。合っています」
「何がだ」
「この68字のうち、11字が、わたしの写した聖典の記号表と同じ形です。上の1本を足すと、重なります」
俺は、その紙を見た。
前世で、俺が使ってきた字だ。魔界の広間の柱に彫ってある字だ。それの上に、天界の横棒が1本載っていた。
「アスさん。先に使っていたのは、魔界の方ですか」
「いいえ」
「天界が先です。魔界の字は、天界の字を写して崩したものだと、母に教わりました」
「じゃあ、俺の界は、あんたらの写しか」
「順が先なだけで、写しとは違います」
彼女は、俺の顔を見て、言い直した。
幕が、内側から開いた。
リディアだった。
包帯の手で幕を押し上げて、出てきて、竈の火を回り込んで、アステリアの正面に立って、見下ろした。
「あんた、天界か」
「はい」
「次元の術を使うのか」
「使います」
包帯の手が、腰の横で開いて、また閉じた。
「誰に習った」
「母です」
リディアは、しゃがんで、アステリアの膝の前の地面に指で円を描き、その中に3本の線を引いた。谷の壁の、第6列の4段目だ。
「これ、読めるのか?」
アステリアは、それを見て、1拍置いた。
「途中までです。ここから下の線が、足りていません」
「どこが足りない」
「1本です」
リディアの息が、止まった。
包帯の手が、地面を掴んだ。爪が入らないので、土が寄っただけだった。
「20年だ」
「聞いています」
「わたしの母親は、この1本を埋めるのに、20年だ。あんた、今いくつだ?」
「ひと月です。この界に来てから、と数えるなら」
「そうかい」
リディアは、立ち上がって、俺を見た。目が、あの納屋の夜と同じ乾き方をしていた。
「ゼノ」
「あぁ」
「こいつ、信じるのか」
「信じてねえ」
「じゃあ、なんで連れてきた」
俺には、答えが無かった。
リディアは、幕の中へ戻った。
幕を落とす音が、大きかった。
ポーラが、鍋の蓋を開けて、また閉め、誰にともなく言った。
「……あの子、朝から何も食べてないよ」
日が落ちた。
アステリアは、竈の横の石に座ったままだった。足首の闇は、そのままにしてある。彼女は一度も、それを見なかった。
それが、引っかかった。
縛られていることを気にしない者は、2通りいる。慣れている者と、いつでも外せる者だ。
「訊く」
「はい」
「その闇、外せるか」
「外せません」
足首の闇は、細く巻いたまま動かなかった。
「嘘だな」
「嘘です」
アステリアは、そう答えて、眉の端を下げた。
「外せます。ですが、外しません。外すと、あなたが、もう一度組み直さなければいけませんので」
俺は、その顔を見た。
18年前、天界の回廊で、この娘は俺の斜め後ろに立っていた。何か言いかけて、やめた。その間に、俺は背中から灼かれた。
そのときの顔を、俺は見ていない。
「1つ言っとく」
「伺います」
「あんたが俺を殺した側だった場合、俺はあんたを殺す」
「そうなるでしょうね」
「その場合、あんたが今から何を喋っても、全部無駄になる」
「分かっています」
「ですので、順を変えてください。わたしを疑ったまま、使ってください」
夜が更けた。
幕の中から、子供の寝息が聞こえる。ラセルから連れてきた3人が、リィナの横で寝ている。
俺は、竈の前に座って、闇を組んだままでいた。そうしておくと、器が休まらない。4割しかない器が、ずっと削れている。それでも消さなかった。
アステリアは、眠らなかった。
膝を抱えて、火を見ていた。火が小さくなると、横の枝を1本だけ足した。それだけで、火は同じ大きさのまま燃え続けた。
「寝ろ」
「眠りません」
「なんでだ?」
「あなたが、まだ闇を組んだままだからです」
竈の中で、足したばかりの枝が爆ぜた。
「関係ねえだろうが」
「あります」
彼女は、火から目を離さなかった。
「あなたが解かないうちに眠ると、朝、起きたときに、解かれていないことが分かってしまいます。……分かるのが、いやです」
俺は、闇を消さなかった。
そのまま、空が白くなった。その頃には、竈の火は落ちていて、娘はまだ膝を抱えて座っていた。




