第134話 斜めに置く
門は、まだ無い。
焼けた枠だけが立っていて、その内側に、板を渡してある。夜はそれで塞ぐ。今夜は、外してあった。
その穴の前に、娘が1人座っていた。板を外した者は、そのとき何も言わなかったと後で聞いた。
膝を抱えて、こちらに背を向けている。
外套の背中が、不自然に盛り上がっていた。荷を背負っているようには見えない。荷なら、下ろして横に置く。
俺が5歩手前で止まると、娘が振り返った。
顔を、見た。
18年ぶりだった。
あの日、天界の回廊で、俺の後ろを歩きながら、何か言っていた。中身は覚えていない。覚えているのは、途中で立ち止まって、こちらを見た顔だ。
その顔が、そこにあった。18年で、1日分も動いていなかった。
俺は、闇を1枚組んだ。
隠しはしなかった。掌の上で、黒いものが薄く回っている。器は4割だ。4割でも、上級の闇魔法が1つ使える。
娘は、それを見ても、立ち上がらなかった。座ったまま、両手を膝の上に置いて、指を開いて見せた。
「わたし、武器を持っていません」
「翼は持ってるだろうが」
その言葉で、娘の肩が跳ねた。
彼女は自分の背中に手を回し、外套の上から、そこを押さえた。盛り上がりは消えない。
「……見えますか」
「見えねえ。形で分かる」
娘の手は、まだ外套の背を押さえていた。
「天使が、何しに来た」
「探しものがあります」
「何を探してる」
「光の輪です」
娘は、隠す気の無い答え方をした。18年前も、アステリアは隠し事が下手だった。そのことを、俺は今、思い出した。
「輪は、ここにはねえ」
「では、見た方はおられますか」
「いる」
「お会いできますか?」
「会ってる」
俺は、外套の袖をまくった。
左の腕に、輪がある。焼けた跡の上に、白い金属が食い込んでいる。18年、俺の腕にこんなものが嵌まったことは無かった。
娘は、それを見て、そこで初めて立ち上がった。
速いのに、音がしない。人間の足の運びではない。彼女は3歩で距離を詰めて、俺の腕に手を伸ばそうとして、途中で止め、自分の手を引いた。
「……触ってもよろしいですか」
「断る」
「では、見るだけにします」
娘は、腰を屈めて、輪の表面を見た。目の動きが、ミルカが写しを取るときの動きに似ている。端から端へ、同じ速さで。
見終わって、彼女は顔を上げた。
「これは、捕らえるためのものではありません」
「じゃあ、何だ」
「運ぶためのものです」
「生きたまま、こちらの界から向こうへ運ぶ道具です。器に蓋をするのは、暴れさせないためです。……これを作れる者は、天界にも多くありません」
「名は」
「知りません」
「本当に、知らねえのか」
「知らされていません」
娘は、そう言って、少しだけ視線を落とした。
「わたしは、そういうものを作る場所へ、入れてもらえない側です」
俺は、袖を下ろした。掌の闇は、消さずに持っていた。
アスはそれを見ていて、何も言わない。
「あんた、名は」
「アス、といいます」
「短えな」
「短くしました」
「元は」
「元は、長いです。この界では、長い名を名乗ると覚えてもらえません」
「言え」
娘は、一度、口を閉じた。
「先に、伺ってもよろしいでしょうか。……ここの砦は、聖国に焼かれたと聞きました。焼いた者たちが、この輪を持っていたのですか」
「40人が持ってた」
「40人」
「1人に4つずつだ。首用のもあった」
娘の顔から、色が引いた。
速かった。人間の血の引き方とは違う。天界の者は、驚くと、頬から先に白くなり、それから唇へ下りる。
「……それは、人間に配るものではありません」
「配った奴がいる」
「そのようです」
「あんたらの、上の方だ」
「……はい」
娘は、否定しなかった。
俺は、それを数に入れた。アスは、嘘をつくときに、必ず一度、否定を挟む。挟まないものは、本当だ。18年経っても、そこは変わっていない。
「18年前の話をする」
娘が、顔を上げた。
「天界の回廊で、1人死んだ。背中から、光の輪で灼かれた。その場に、天使の娘が1人いた」
アスは、動かずに俺を見ていた。さっきまで俺の腕の輪にあった目の焦点が、初めて、はっきりこちらに合った。
「……あなた、どうしてそれを」
「そこにいたからだ」
言ってしまってから、俺は自分の口を疑った。
18年、俺はこれを誰にも言わなかった。リィナにも、エリシアにも、ミルカにも言っていない。魔界の広間へ石を投げるときも、この話だけは彫らなかった。
言うつもりが、無かった。
それが、口から出た。なぜ今この相手に、と思った。答えは、たぶん単純だ。この娘だけが、あの場の床の色を知っている。
アスは、そこに立ったまま動かない。呼吸も止まっている。天界の者は、驚くと呼吸を止め、そのまま長くもつ。
その息のまま、彼女は言った。
「……嘘です」
「嘘じゃねえ」
「嘘です。あの日、あの場にいたのは、3人です」
「4人だ」
「3人です。——わたしと、あの人と、もう1人」
娘の声が、裏返った。
「もう1人が、誰だ」
「言えません」
「言えねえのか」
「言いません」
アスは、そう言い直した。
俺は、掌の闇を組み直した。
1枚を2枚に。2枚を3枚に。3枚目を置くときに、俺は指の角度を少し変える。まっすぐ重ねると、2枚目の縁と食い合って、力が逃げる。だから斜めに置く。誰かに教わったのではない。子供の頃から、気づけばそうしていた。
18年前から、この癖だ。
魔界で、誰も真似できなかった。
アスが、その手元を見た。そこで、息が戻った。
震える息のまま、彼女は俺の顔を見て、また手元を見た。何度か往復するたびに、目の開きが大きくなった。
「……あなた」
「なんだ」
「3枚目を、斜めに置きますね」
俺は、答えなかった。
放っておけば、この娘は勝手に喋る。18年前から、そうだった。
アスは、笑った。
眉の端が下がる笑い方だ。困っているようにも見える。泣く前の顔にも見える。18年前、この笑い方を見るたびに、俺は厄介なことになると思っていた。
「遅くなりました」
彼女は、そう言った。
俺は、闇を消さなかった。
「まだ、信じてねえ」
「そうでしょうね」
「あの日、あんたはあの場にいた」
「いました」
掌の上で、3枚の闇が回り続けていた。
「なんでいた」
「待つように言われていたからです」
「誰にだ?」
アスは、答えずに、門の焼けた枠に手を掛け、そこに額をつけた。そのまま、動かなくなった。
俺は、その背中を見ていた。翼は見えなかった。




